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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏④

 台州氏は、答書を受け取る前の4月28日に更にもう一通書牘を書く。
 「西遊紀行」が郷里の人々に認められないことを嘆き、その草稿ができているので、これを是正していただきたいという意向の表白内容のようだ。
 要は、漢文的に「大家の赫々たる名と勢とをお借りして、自己の文章が知られることを望む」といった感じのようだ。

 その手紙を書いた一月後の明和2年5月2日に、先の3月27日付「之を助けんとする答書「答熊阪子彦(継志編)」が、到着する。
 この事から、当時の書牘は、1月かかるということが分かる。返書は最短で2月後であることは当時の常識なのだろうと思う。そういう常識の中で、台州氏は1月後に第2書牘を送っているということだ。
 その待ちきれなかった返書がようやく届く。しかもその内容は快諾ということ。  

 台州氏は、これで決心がつき、5月25日付第3書牘で、手元に留めていた「西遊紀行」と「海左園稿」1本と会わせて送ることを告げ、6月に藩主松平信直に従て亀山に赴く観海が旅中に点検してくれるように乞うているという。

 こういった学門について疎いので、このあたりでいくつかの確認整理をしておく必要がある。
 その一つが「松崎観海」氏。
 誰もが知っていて当然のように「6月に藩主松平信直に従て亀山に赴く観海」ことが記される。少なくとも、それに耐えられる程度の予備知識の確認は必要だ。

 「三省堂大辞林」では、氏を「中期の儒者・漢詩人。丹波篠山藩士。名は惟時、字は君修。太宰春治に儒学を、高野蘭亭に詩を学んで、徂徠学派として重きをなした。著『観海先生詩集』」と解説する。
 その丹波篠山藩士の部分について、「日本歴史人物事典」では次のように解説される。
 延享3年(1746)年、父の退隠によって家督を嗣ぎ、篠山藩(のちに丹波亀山に移封)に出仕、晩年は家老の待遇を受けた。経学、詩文とも名声が高く、一藩の藩士という制限がありながら、その門に集う者はあとを断たなかった。

 この「のちに丹波亀山に移封に出支して、晩年には家老の待遇を受けた」時期と理由が手紙の内容と重なっているということだろうと想像される。

 次が、「海左園稿」にかかわる確認。
 「『吾妻鏡補』と熊阪台州・盤谷(徳田武)」では、「たぶん明和元年11月15日に没した覇陵と台州の詩を収めた詩集で、後に「永慕編」として刊行されるものの前身だろう」と推定している。その根拠が「海左園」は、台州の父覇陵が設けた庭園であること。ここでは、二十境との重なりを想像しているように思える。

 しかし、地元では、この「海左園」については混乱的に捉えられているとみている節がある。
 「伊達の香り」の「高子の熊阪氏と白雲館」では、「海左園」は自宅である白雲館の南西の山の斜面を活かして築いた枯山水の庭を想像しているように思える。
by shingen1948 | 2016-12-15 09:52 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)