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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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熊阪台州氏②

a0087378_1031231.jpg 今回の亀岡邸の見学時には、「伊達市保原歴史文化資料館」も自由に見学できた。その時に頂いた資料に、寄託品として「白雲館」の額が紹介されていた。
 熊阪台州氏の父熊阪覇陵も詩人・儒者で、その屋敷を「白雲館」と称していたという事は知っていた。
 江戸昌平坂聖堂蔡酒林大学頭信敬の筆とある。疎いので、一つ一つが確かめの対象だ。

 「昌平坂」は江戸幕府直轄の学問所であり、戸湯島にあって昌平黌ともいうということについては、既知に近い。
 「昌平坂聖堂蔡酒」は、幕府から聖堂預かりを任せられたという役職名で、その長官を「大学頭」と称したとのこと。「林大学頭信敬」は、その長官「林信敬」ぐらいかな。
 「林信敬」氏だが、氏は元禄4年(1691)昌平坂聖堂祭酒職に任ぜられ、大学頭と称す。途中、寛政2年(1790)寛政の改革の一環として幕府直属の教育機関とし体裁が整えられるが、大学頭は幕末まで代々林家が世襲することになるようだ。

 さて、「『吾妻鏡補』と熊阪台州・盤谷(徳田武)」が紹介する熊阪台州氏の歩みだが、まずは、「台州と入江南溟」の項では、宝暦10年(1761)22歳の時、江戸の入江南溟への入門が読み取れる。
 入門時の入江南溟氏は、この時75歳で、いささか衰えを見せていたはいたが、徂徠学派の重鎮だったとある。

 入江南溟氏は、江戸時代中期の儒者。天和2年(1682)生まれ。荻生徂徠に学び、江戸で塾をひらく。出羽久保田藩 (秋田県)の藩士からの入門者が多く、秋田に徂徠学が広まったという。明和6年5月28日死去。88歳。 (デジタル版 日本人名大辞典より)

 「『吾妻鏡補』と熊阪台州・盤谷(徳田武)」では、ここで台州氏がこの入江南溟氏から得たものとして2つ紹介する。
 その一つは、徂徠の「文罫」の内容をうかがい知った事とのことだ。
 台州氏の「白雲館文罫」によれば、これは安藤東野・山県周南・太宰春台・南敦のような初期の門人たちしか授けられなかったものという。こうした秘書扱いの「文罫」の概要を、伺いきくことができたということだとのことだ。
 もう一つが、徂徠も秘して公開しなかった「起束・喚起・虚実・沈響・六対」の5つの観点を用いて律詩を分析しようという秘法を会得したものとの保証を得たこととのことだ。
 台州氏は、入門以来翌年の8月13日に西遊の途に上るまでの毎日、西遊の途から江戸に戻った23日以来、9月16日に分かれるまでの毎日、南溟に会見し、入江南溟氏と律詩の法について討論していたとのことだ。
 その中で、その律詩の秘法を会得したとの保証を頂いたという。そして、自らもこの方を用いて古今東西の律詩を観察して、その良否が弁別できたことで、律詩の正法を得た事を確信したという。
by shingen1948 | 2016-12-12 10:35 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)