亀岡邸の情報から③:福島の建築(12の2)
2016年 12月 09日
「伊達市ホームページ」の資料では、亀岡家住宅の建築開始は明治16年とあり、20年という歳月をかけていると解説される。亀岡家住宅の完成というのは付属建物も含めての期間を指すようだが、亀岡家居住棟自体の完成も、一応明治28年とする。
それを、新しい案内板では、この建物の建築年代を「明治37年頃」と精査している。そのことについて確認してみる。
エピソードでは、飯坂の「なかむらや旅館」をみて大工棟梁を小笠原国太郎氏と決めたことになっている。その新館完成は明治29年だ。という事は、亀岡家居住棟の建設開始は、それ以降ということになる。しかも、小笠原国太郎氏は、明治30年まで天皇を迎える「花水館奥の間(御殿)」の建設に携わっているということもある。
更に、エピソードでは、「手始めに倉座敷の造作を依頼し、その完成みて、すっかり技量にほれ込んで、亀岡家居住棟の建設を依頼した」ことになっているという。

ここに、江川氏が設計したということの年代的に見た条件を加える。氏が福島県の建築技師になるのは明治20年(1887)で、それから明治35年(1902)に岡山県に転任になるまでの15年間が福島県での勤務ということだ。
このことも加味すると、亀岡家居住棟の設計と建設開始時期は、明治30年以降、明治35年より前というのが自然だろうと思う。後半は、会津での仕事が多かったということを考慮すればもう少し幅は狭まるかもしれない。
他の情報と見比べると、完成が「明治37年頃」という精査は、かなり妥当性のある絞り込みのような気がする。
今回の展覧会で、写真掲載された「明治35年大木材木店の領収書」・「旧亀岡家住宅設計図」とともに、「明治36年大工棟梁小笠原国太郎からの領収書・末尾」は、材木仕入れの支払いが明治35年、明治36年の大工への支払いが為されるということだ。その整合性も自然だと思う。
「明治の擬洋風建築(草野)」では、主棟建立について明治16年焼失後、明治28年の再建という口伝を元にして、「ランタンやポーチを飾っている手法は本県では比較的早期に属するものといえる」として、「豪農住宅」として見た時の特異性を考察している。
10年違ってもその考察に影響はなさそうに思うが、どうだろうか。