亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎⑥:福島の建築(12の2)
2016年 12月 02日

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元禄元年(1688)創業の老舗旅館「花菱屋」だった花水館の建物を買い取った現「なかむらや旅館」が、新たに建てた三階建ての「明治館」とその花水館「奥御殿」の両方のが、亀岡邸の大工棟梁小笠原國太郎氏の仕事であることを頭におくと、妻子を呼寄せ、福島市飯坂町に居を構える略歴部分に納得がいく。
この時代、飯坂町が誕生するための町づくりの大きなうねりがあって、多くの建物建設がなされたこととのかかわりが想像できるからだ。
街の整備にかかわる出来事を再掲する。
明治21年(1888)4月5日「飯坂大火」
湯町から出火した火災は西風にあおられて、湯沢、十綱町に延焼し、178戸が灰になる。この時、鯖湖湯も焼失する。
明治22年(1889)鯖湖湯が再建される。飯坂町が誕生する。
明治24年(1891)鯖湖神社が建立される。
この時期の飯坂の変革のうねりには、堀切良平氏もかかわり、大火の焼け跡整備に私財を投げうって奔走したようだ。
焼け跡の旧道を広げ、土地の高低をならし、古戸、東滝ノ町、湯沢の畑に新しい道を造り、新町(しんちょう)(錦町、古戸町、旭町、鯖湖町、若葉町)を設置し、摺上川沿いの若葉町に遊郭を移転したという。
この時に新たに整備される「滝の湯」を中心とする旅館群のかかわりの中に、花水館の移転があったのだろうと想像する。
そして、その変革に伴う建築に、小笠原國太郎氏がかかわっていたのだろうと思われる。
そう考えると、今回頂いた資料で、正元氏の姉と娘が堀切家に嫁いでいて、その堀切家を媒介に、亀岡邸の大工棟梁に小笠原國太郎氏を依頼したという想像に合点がいく。そのモデルハウスの役割を担ったのが「なかむらや旅館明治館」だったというイメージだ。
なお、先の整理では「飯坂の歴史」を元に、明治21年(1888)「飯坂大火」を街づくりの変革のきっかけに想像したが、街づくりの変革のスタートの方がそれより早いようなので、訂正したい。