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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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亀岡邸の大工棟梁は小笠原國太郎③:福島の建築(12の2)

 「亀岡邸」と「なかむらや旅館」建築にかかわるつながりの象徴を、階段部の欅材を削った部材手すり子細工と勝手な見方をしている。
 これもまた素人の勝手な見方だが、その手すり子細工に木地師の技術を感じている。
 直ぐに「なかむらや旅館」と「飯坂こけし」のかかわりを感じてしまったのは、先に土湯から飯坂に進出した「なかむらや旅館」と土湯系飯坂こけしのかかわりについてふれたことがあったからだ。こけしの地域散策資料を元に土湯散策をしたその延長に飯坂を散策する中で整理したものだ。
 まずは、その「飯坂こけし」について再整理する。

 地域散策資料としては、つい最近まで「木人子室」というこけしにかかわるホームページが開かれていたのだが、そこに紹介されていたことを元にした散策だった。今回そのページを確認したら、運営会社の都合で消えていた。
 覚えている範囲での整理とする。

 「飯坂こけし」については、二つの系統が紹介されていた。
 その一つは、「木地屋八幡屋」で、八幡神社付近にあった弥治郎系のこけしなそうだ。
 明治23年(1890)に、弥治郎出身の毛利栄治氏が、八幡神社門前の佐藤応助氏の三女クラさんに婿養子に入って「木地屋八幡屋」を開業したということだった。
 佐藤応助氏という人は、義太夫に長じ、踊りの師匠までやった人だとの情報も……。
 この事にかかわる散策については、「飯坂温泉:飯坂こけし②」でふれているが、結局は散策の中では何の手掛かりも得ていない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6227840/

 もう一つが、「木地業山根屋」で、鯖湖付近にあった土湯系のこけしなそうだ。
 明治32年(1899)に、土湯の工人である渡辺作蔵氏の二男角治氏(明治10年~大正11年)が飯坂に移ってきて、キンさん(明治14年~昭和16年)と結婚し、明治37年(1904)頃から「木地業山根屋」を開業したということだ。
 この土湯温泉から飯坂温泉に移るのに、「なかむらや旅館」の主人阿部与右衛門氏の口利きがあったということだった。これには、この「なかむらや旅館」も土湯温泉から移ってきたということが絡んでいる。
a0087378_6191227.jpg この事にかかわる散策については、「飯坂温泉と土湯温泉:飯坂こけし」でふれているが、この時には、この飯坂こけしは探し当てられなかった。というか、この時は、まだこちらのこけしは休止状態だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6222693/
 ここでの後半に、なかむらや旅館が、飯坂に進出することになった事情も、当時の旅館のホームページに掲げられていた沿革を引いて整理していた。
 初代阿部與右衛門は、明治のはじめ現在の福島市外土湯温泉からこの地飯坂に出て参りました。当時土湯村において旅籠を営んでおりましたが、たび重なる洪水に悩まされ、このまま土湯に留まっては家運が衰えると判断し、飯坂に進出することを考え、当時の花菱屋、(現在の花水館の前身)を買受け営業したのであります。その後旧館(江戸館)に新館(明治館)を増築し、100年が過ぎました。

 更に、「飯坂こけし③」で、この「木地業山根屋」の弟子と思われる原の町こけし工人の高橋忠蔵氏について整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6235113/
 今回の震災と原発事故でどうなったのか、現在の消息は分からない。

 「なかむらや旅館」は、これらの散策も含めた視点で、「福島の建築 30」として整理したが、その内部について見学する機会はなかった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/10112983/

 それから4年後だった。
 堀切邸の見学で、偶然「飯坂鯖湖こけし」に出会ったのだ。そのことを整理したのが、
飯坂散歩③ ~ 「飯坂鯖湖こけし」」だった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11860596/
by shingen1948 | 2016-11-29 09:15 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)