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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑱:福島の建築(12の2)

 今回の概観で、江川三郎八氏が福島県雇になって以降の概要がイメージできた。
 戊辰戦争以降福島県雇になるまでの概要を確認したいところだが、これが結構難しい。
 というのは、戊辰戦争後の氏の家族構成だが、母を頭に姉と8歳の三郎八氏ということではなかったかと想像されるからだ。
 一般的には、会津藩士の状況は、明治2年11月に、會津藩は本州最北端の下北の地に3万石の斗南藩として再生することにかかわって、斗南藩が支配する地域に移住開墾することになる。
 しかし、母子家庭の元藩士家族が、「(藩主)御子息容大公には御情け扶持として、僅かに三万石を給せらるゝに到れり」となった斗南藩に移住したものかどうか分からない。
 移住先から戻ったにしても、居住し続けたにしても、会津の藩士確認は、一般的には「士族名簿」で確認するようだが、こちらも確認は難しかった。
 ただ、その生活状況は「江川三郎八bоt」での次のつぶやきで想像できる。
 「我等も母子三人なれば、毎日白米六合を賜はる為め、漸くにして露命丈けは繋得られ共、如何とも致し難く、戊辰の役以前に四書の素読を習ひたるのみにて、其の上学ばんとするも師なく、書なし。只生あるのみなり」
 少なくとも、福島県雇を目指し、福島に向かう時点では会津若松に居住していたことが分かるのは、次のつぶやき。
 「いよいよ数年来の希望を達する緒ならんと、曽て信仰せる柳津虚空蔵尊に参拝し、母と妻とを此の家に残し置き、単身、福島県庁に向ひたるは、即ち明治20年3月上旬なり」
a0087378_1040397.png これは、参拝したという柳津虚空蔵尊を安置する本堂を、「只見川と云う奇岩怪石両岸に聳え風景秀絶なるを以って知らる堂あり」と紹介する「福島県写真帖」の「柳津」からの写真。

 その結果、どうだったかについては、今は消えているが「会津藩出仕者名簿」というページで「福島県江川三郎八М20.4.19福島県雇土木課、福島県М24.9.29福島県技手」が確認できる。
 福島県技手となった喜びは「茲に老母の齢も八十歳に到れり。幸ひ身も県技手となり、且つ大蔵省の嘱託の身なれば老母の知人、友人及親族等を招きて祝賀の宴を開きたり」とのつぶやきで分かる。
 
 当然、福島県技手となるきっかけとなる大工修業も会津若松だったことが、次のつぶやきで分かる。
 「先づ其の師を選ぶに当り、若松下二之町に山岸喜右衛門と呼ぶ代々の町大工棟梁あり。此の家は其の昔、江川家の養子となり、嗣いで小奉行を勤めたる音衛門は、此の山岸喜右衛門が弟なりしを以て、最も深き親族の関係あり、故に同氏を師と仰ぎたり」
 次のつぶやきは、山岸喜右衛門の身元にかかわる事だが、母子家庭の身元引受にかかわったとの想像もできないだろうか。
 「時の喜右衛重秀は、蒲生氏郷入国の砌、侶伴せる人より十七代の孫に当り、今尚当時拝領の屋敷を動かざる旧家なり余は此の師に就き専心業に従事せり。師も亦余暇を見出しては余を膝下に招き、種々教訓を授けらる」

 福島県雇江川三郎八氏の大工修業は、宮大工だったとされるが、それが次のつぶやきとかかわるのだろうと思う。
 「こゝに於て余も跳る心を容易に落付け、尚其の職に従事すること数年にして、明治15年の暮に至り、先づ一通りの斯道を得体するに到れり。尚堂宮建築に就きて進みて之を学ぶ」
by shingen1948 | 2016-11-22 10:42 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)