人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑱:福島の建築(12の2)

 明治32年(1900年)の伊佐須美神社社殿再建に江川三郎八氏がかかわったとするならば、平成20年(2008年)10月3日に焼失した拝殿、授与所、10月29日に焼失した本殿・神楽殿・神饌所がそれだったという事になる。という事は、自分がそれまでに何気なく見ていた建物だったということだ。
 この旧本殿は、建築的には三間社流造といい、幣殿で接続された旧拝殿は七間社流造というようだ。屋根は銅板葺だったようだ。
a0087378_5514579.png この建物は、福島県立図書館が「デジタルライブラリー」として、ネットで公開している「福島県写真帖」で確認ができる。
 この写真帖は、福島県が明宮嘉仁親王(後の大正天皇)が明治41年(1908)秋に東北地方を行啓されたことを記念して編集したものなそうだ。その中に「国幣中社伊佐須美神社」として紹介される。
 この神社が国幣中社とされるのは明治6年のようだが、それまでも、会津では由緒正しい神社とされ、歴代会津藩主が加護する神社だったようだ。しかも、翌年から元会津藩主松のご子息が宮司に就く前段階でもある。氏がかかわったとすれば、元会津藩士であったことを思えば、いかに名誉な仕事だと感じた事かと想像する。

 ここまで整理してみると、氏が福島県でかかわった仕事は、会津にかかわる仕事が多かったように思う。「会津藩出仕者」であることが考慮されたのだろうか。
 「江川三郎八bоt」というツイッターには、このことにかかわる次のようなつぶやきが見える。
 「噫!天は我が行身を憐み給ひて、老母の看護をなさしむる為め、斯くは若松の工場に出張を命じたるならんと天を仰いで再拝せり」
 姉と母を若松に残して、単身福島に出向いていたことも分かる。
 次のつぶやきは、この時点なのか別の時点なのかは分からないが、郷里である会津若松に帰省した際の行動が分かる。
 「翌十一日より郷里若松市へ帰省、直ちに祖先の墓前に拝参、今日の首尾を報告せり。夫れより恩師山岸翁を訪問し、種々なる教訓的注意を受け、(高木風に嫌はれ出づる釘は打たるの格言)尚四方八方の話に時を費す」
 前後のつぶやきから、ここでいう「恩師山岸翁」が大工の指導を受けた方であることが分かる。
by shingen1948 | 2016-11-21 08:50 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)