地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑰:福島の建築(12の2)

 「江川三郎八研究会」発信が確認できる福島での江川三郎八の仕事として、「安達郡役所」までの5例を整理した。
 ここで、江川三郎八技師が自伝「生ひ立ち野記」の一説をつぶやくという「江川三郎八bоt」というツイッターに目を通し直した。
 気になったのが、「我は議事堂改築工事及伊佐須美神社再建準備に従事せる内、再三の上京を命ぜらる。而して同神社設計上に就き、内務省技師伊東博士の御指図を受け、所々に訂正を加へたる上、いよいよ図面及設計書共受理の運に到れり」のつぶやきだ。
 「江川三郎八研究会」発信からは読み取れないが、ここからは伊佐須美神社再建の設計にかかわったように読み取れるような気がするのだ。

 ここは、1400有余年の歴史と岩代の国一ノ宮会津総鎮守の格式をもつといわれている会津では有名な神社の一つだ。
 ここの散策については以下の四回に分けて整理している。
 〇 伊佐須美神社
 http://kazenoshin.exblog.jp/10550544/ 
 〇 伊佐須美神社②~薄墨桜
 http://kazenoshin.exblog.jp/10564718/
 〇 伊佐須美神社③~あやめ苑の桜
 http://kazenoshin.exblog.jp/10571335/
 〇 伊佐須美神社④~智鏡塚
 http://kazenoshin.exblog.jp/10577835/
a0087378_327126.jpg ただ、残念なことに、散策時点では神社は仮本殿の状態だった。
 本殿が平成20年(2008)10月29日に本殿と神楽殿を結ぶ渡り廊下下の倉庫から出火し、本殿をはじめ神楽殿・神饌所などを全焼してしまったのだ。同年12月20日には、仮本殿が完成したが、その規模は以前の本殿と比べ三分の一程度ということだ。

 伊佐須美神社の沿革を確かめると、火災の多い神社のようで、以下のように社殿の焼失と再建を繰り返している。
 文亀3年(1503年)、火災で焼失。
 永正11年(1514年)、蘆名盛舜(別説に蘆名盛高・盛滋父子)により再建。以後、寛文年間(1661年〜1672年)までに多数の社殿造営。
 寛文7年(1667年)、会津藩主の保科正之の「神社改め」により仏教色を一掃。
 延宝2年(1674年)、2代藩主の保科正経により社殿改修。
 天明3年(1783年)、火災で焼失。
 寛政元年(1789年)、5代藩主の松平容頌により本殿・幣殿再建。翌年以後、拝殿・西門・宝蔵等再建。
 文化9年(1812年)、火災で焼失。
 文政3年(1820年)、再建。
 明治元年(1868年)、戊辰戦争の兵火で御旅所・柵門等を焼失。
 明治6年(1873年)、国幣中社に列した。
 明治30年(1898年)、火災で焼失。
 明治31年(1899年)、火災で社務所・南門等焼失。
 明治32年(1900年)、社殿再建。
 明治33年(1900年)から大正5年(1916年)には、会津藩主松平容保次男の松平健雄が宮司に就いた。
 そして、平成20年(2008年)10月3日には火災により拝殿・授与所が焼失し、同年10月29日にも火災で本殿・神楽殿・神饌所などが全焼した。

 江川三郎八氏の経歴を考慮すれば、かかわるのは明治32年(1900年)の社殿再建ではないのかなと思われるが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2016-11-20 09:17 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)