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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑨:福島の建築(12の2)

 前回、亀岡邸見学整理で分かった福島県内での江川三郎八氏の略歴に岡山情報を合わせて整理した。今回は、彼の父が会津藩士江川宗之進であるとのことなので、それを手掛かりにネットで情報を集めてみる。
 まずは、会津藩士江川宗之進広伴の岡山の情報に「職は具取扱い役を勤め、妻は同藩の儒碩山ノ内源太夫の娘。三男一女、不幸短命にして慶応二年病で歿」がみつかる。「長男平六は早死、次男次郎八が継いで武具役人見習の職。三男が万延元年十月十日生の三郎八」も岡山の情報。
 次に確認できたのが、「幕末会津藩殉難者名簿」の白虎寄合一番原隊所属で、9月19日に会津面川で、17歳で戦死した「江上次郎八」項に、「宗之進伜」とある会津の情報。
 白虎寄合一番隊の名簿などを確認すると、「江上次郎八」は、「江川次郎八」の誤りであることがわかる。
 江川三郎八氏は延元年(1860)生まれとのことなので、この明治元年の戊辰戦争時点では8歳だったことが分かる。この時に、兄江川次郎八氏が17歳で亡くなったということになる。
 略歴確認としてはここまでだが、江川次郎八氏の戦死状況確認とともに気になるのが、彼の所属する「白虎寄合一番隊」。わき道にそれる。

 この隊は、奥羽越列藩同盟に背いた新発田藩から攻めて来る新政府軍に対抗するため、慶応4年7月15日に若松を経って越後口の守備についたことが分かる。越後街道を行軍して会津領西端の赤谷に8月2日に到着して守備につくのだが、これ以降2か月以上ずっと転戦するようだ。
 この寄合白虎隊に関しては「寄合白虎隊 ―激闘の七十余日―(堤 章著)」が詳しいとの情報はあるが、とりあえず知りたいのは「江川次郎八」が戦死する事になったこととかかわる戦局概要の部分だ。
 今回は「白虎彷徨」サイトの「白虎寄合一番隊」の項を参考に要約させていただく。
 http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/byakkoy1.htm
 
 9月11日に転戦中の一番隊の主力は、新政府軍と一戦を交え、撃退に成功する。その後、塩川を経て一ノ堰に進み、ここで会津軍は新政府軍に猛攻撃を仕掛ける。 
 この戦いで、敵味方共に多数の犠牲者を出し、白虎寄合一番隊でも中隊長の原早太と隊士5名が戦死。9月17日には新しい中隊長望月辰太郎に率いられ、再び激しい戦闘を繰り返し、3名が戦死するが、そこに江川次郎八の名がみえる。
 結果的には、朱雀寄合二番隊、結義隊なども加わって新政府軍に逆襲し敵を北へ後退させたとする。
a0087378_5155370.jpg 別資料と照らし合わせると、先の中隊長の原早太戦死にかかわる戦闘は9月15日の戦いのようだ。 また、江川次郎八は面川村で戦死、同じ隊のこの日の戦死者木村次郎と関原繁太郎は一ノ堰での戦死とのようだ。
 ここまで確認したところで、手持ち資料「会津白虎隊十九士傳」の中の「会津白虎隊(山川健次郎)」に、寄合隊、足軽隊も含めた白虎隊全体の動向と、隊には属さないが14歳から17歳で戦死した少年も紹介されているのが分かった。灯台下暗しだ。
 この中で、江上次郎八は「完之進倅15日17日いずれかの戦いに参加したるか詳ならず死所は面川村で17日である。年17」と紹介されていた。

 ここまで確認したことを整理する。
 延元年(1860)10月10日会津藩士(武具取扱い役)江川宗之進の三男として生まれる
 慶応2年(1866)父病歿で、兄次郎八が継いで武具取扱見習い役となる。この時、三郎八8歳
 慶応4年=明治元年(1868)戊辰戦争で、兄次男次郎八が面川村で戦死
by shingen1948 | 2016-11-12 09:07 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)