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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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亀岡邸の設計に江川三郎八がかかわる⑧:福島の建築(12の2)

 今回の亀岡邸見学にかかわる整理で明らかになった福島県内での江川三郎八氏の略歴に、岡山情報を加えると以下のようなことになるだろうか。

 延元年(1860)10月10日に現会津若松市に生まれる
  <宮大工の大工修行>
 明治20年(1887)に福島県雇建築技師、橋梁や建物の設計監督に携わる。山口半六に指導を受ける。
 明治24年(1891)福島福島県技手
 明治26年完成とされる亀岡邸建設に携わったとされる。
 (※亀岡邸案内板では、明治37年完成とされる)
 明治27年(1894)金透小学校設計監督
 明治31年(1898)妻木頼黄に指導を受ける。県会の説明員にその名が見える
 明治34年(1901)久留正道から学校建設の指導を受ける。3月31日携わった県会議事堂完成
 明治35年(1902)完成の日本赤十字社福島支部の設計・監督
 明治35年(1902)岡山県職員となる

 指導を受けた方を確認すると、その方面の日本で一流の方のようだ。この研修は、三島の方針だったのではないかと想像する。
 福島県技手の研修先の観点から、略歴の要点を整理させていただくと、次のような方。
 山口半六
 明治9年(1876)文部省貸費留学生に選抜されフランス留学、 国立パリ中央工芸学校入学、明治12年(1879)卒。明治14年(1881)帰国後、現日本郵船入社。明治17年(1884)文部省に移り文部省管轄学校建築担当。明治24年(1891)工学博士号授与(建築家として2人目)
 妻木頼黄
 明治9年(1876)渡米するも日本で学ぶように説得され帰国、明治11年(1878)工部大学造家学科(東大建築学科)入学、コンドルに学ぶ(辰野金吾の後輩)。明治年(1882)中途退学、アメリカ留学。コーネル大学で学士号を取得し、明治18年(1885)帰国、東京府に勤務。
 明治19年(1886)内閣臨時建築局(国会議事堂建設のための組織)に勤める。議院研究のためドイツ留学。明治21年(1888)帰国するも、議院本建築見送り。大蔵省で港湾、税関、煙草・塩専売などの施設建設に当たる。
 明治27年(1894)年 日清戦争の際、大本営の置かれた広島に臨時議院( 広島臨時仮議事堂)を短期日で完成させ、この功績で叙勲を受ける。奈良の東大寺大仏殿修復にも関わる。明治34年(1901)欧米を視察、同年工学博士号を取得。
 久留正道
 山口半六が辞した文部省営繕の2代目指導者。
 明治14年(1881)工部大学校造家学科(東大建築学科)卒。工部省技手などを経て同19年(1886)文部属に、翌年文部省技師。明治中期の第一から第五までの高等中学校建築にかかわる。
 明治24年(1891)非職となり東京工業学校 (東京工大)東京美術学校 (東京芸大)専修科で嘱託として教鞭。
 明治25年(1892)文部省技師に復帰、会計課建築掛長。以後、初等・中等教育施設の行政指導や直轄学校の創立工事などにかかわる。明治後期の学校建築の基本型として利用された『学校建築図説明及設計大要』を著す。

 亀岡邸の指定理由が「福島県技術者と地元大工の協働により成立した独創的な造形には、地方的特色が認められる」ことであり、 東北地方における近代建築の展開を理解する上で重要であるとの意義だとするならば、福島市が県庁所在地であるにもかかわらず、当時の擬西洋風の公共施設の建築物が全く残らないという事は、今まで思っていた以上に、本当に残念なことなのだなと実感した。
by shingen1948 | 2016-11-11 09:30 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)