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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑬

 都の奥州ブームにかかわって能因法師が「街道をゆく(33)」に紹介されていた。前回は、その中の白河の関にかかわる歌のエピソードにふれた。
 同書では、奥州へのあこがれ変化を、能因法師の生計とのかかわりで解説する。
 それによると、能因法師は、荘園を持つような身分ではなかったという。それで、その生計を奥州の馬とのかかわりで立てていたのではないかという。
a0087378_346319.jpg こちらの話が興味深いのは、地域散歩で確認した春日神社の「信夫渡し碑」=「能因法師の歌碑」とつながる話のように思うからだ。
 おおよそ次のような紹介だ。

 国司は、役得で馬を貰ったりすることがあるのだとか。それが都に運ばれた時には、一時的に飼っておく牧が必要になるということだ。能因は、このこととかかわって生計を立てていたのではないかというのだ。礼金を元に牧を商業的に運営していたという仮説話だ。
 40歳近い能因は、万寿2年(1025)以降に二度も奥州へ出かけるわけだが、これは馬の交易のための実務的な旅だったのではないのかというのだ。
 この事は、それまでの詩的なあこがれとしての奥州というイメージから、馬と産金という実利的なイメージに変質してきたという事を意味するともいうのだ。

 これは、春日神社の信夫渡碑で紹介される能因法師の歌だ。
 浅茅原荒れたる宿はむかし見し人を信夫の渡なりにけり 能因法師
 この歌は次のように解釈されているようだ。
 「能因法師が二度目の奥州の旅の時、常陸から久慈川をさかのぼって奥州信夫の里に着き、旧知の友を訪ねてこの地に来たのだが、その人はもう亡くなったと聞き惜別追悼の情から歌った歌」。
 注目は、この地に旧知の友がいて、そこを訪ねたということだ。
 能因が陸奥から戻った国司がもらった馬を一時預かる牧場経営で収入を得ていたということなら、陸奥のこの地に友がいても自然であり、イメージ的に納得がいくということだ。

 今回、春日神社の信夫渡碑を確認していて、もう一つ気づいたことがある。
 前段の漢文の部分を見ていたら、「天明丁未秋九月伊達熊阪定邦撰」とあることに気づいたのだ。天明丁未は、天明7年だ。
 この歌碑は「天明7年(1787)9月伊達熊阪定邦撰」で「金竜山人筆」ということになる。
by shingen1948 | 2016-10-11 09:30 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)