「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑬
2016年 10月 10日
地域資料側からは、願望も込めて、西行は信夫荘佐藤氏と親戚関係なのだから立ち寄ったに違いないという。信夫の里を散策している者にとっては、その通りだと思う。
しかし、ちょっと巨視的に見ればというか、西行側の立場に立ってみればというか、平泉藤原氏とも姻戚関係にあるのだ。
2度目の奥州の旅の目的達成に、信夫の里の佐藤氏を介す必要などないはずだ。直接頼んだ方が確実に達成できると考えるはずなのだ。信夫荘に立ち寄るとすれば、それは平泉に行く途中の休憩ということでしかないだろうなと思う。
余談のついでに、もう一つの余談を確認する。

http://kazenoshin.exblog.jp/9007085/
というのは、源重之の「袖の渡」と光俊の「いなばの渡」は、宮城県亘理町の阿武隈川だとか、「袖の渡」は石巻市だとかという説もあるようではっきりしないようなのだ。
その中で、熊因法師の「信夫の渡」は、この信夫の里の渡利の渡しだろうという以外の説はないということのようだ。
その能因法師についての話だ。
今回、「街道をゆく(33)」を整理の補助資料として活用させていただいたところだが、その都の奥州ブームにかかわって、この能因法師が紹介されていたのだ。
「(都の)源融から発した奥州ブームは、実方を経て能因の時代になると、いよいよ盛んだった」という。その能因法師について、次のようなエピソードが紹介されている。
その一つが、白河の関にかかわる歌のエピソードだ。
都をば霞とともに立ちしかど、秋風を吹く、白河の関 能因法師
この歌、机上で詠んだ歌だと思われたくないので、数か月外出せず、色をくろく日にあたりなして後、人前に出てちょっと陸奥へ行きましたといって歌を披露したのだとか。
こちらは有名な話らしいことは、確認していく中で分かったことだ。
そして、もう一つが、荘園を持つような身分ではなかった能因の生計は奥州の馬を買っていたという仮説だ。こちらが、春日神社の「信夫渡し碑」=「能因法師の歌碑」とつながる話のようなのだ。