地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑫

 地域資料では、西行法師信夫の里立ち寄りを2回目の奥州旅路と想定か?
 西行の奥州への旅は2度想定されているようだ。
 西行は23歳で出家し、それから3年後の26歳の時に、一度目の奥州の旅に出たとされる。このあたりは、大河ドラマ「平清盛」視聴とかかわってイメージしやかすった。これが西暦で1143年頃とのことだ。ただ、その目的ははっきりわからず、能因法師などの歌枕を訪ねる旅だとも、単なる漂泊の旅だとも言われているとのことだ。
 それに対し、2度目の奥州の旅は東大寺大仏建立勧進のための旅で、その目的がはっきりしているという。文治2年(1186)西行69歳の時で、旅の途中、鎌倉で源頼朝と会談するのは、この奥州平泉の旅が東大寺大仏建立にかかわる砂金勧進の為であるというという事を了解してもらうためだったともいわれているという。
 この事と地域資料の案内を見比べると、西行法師信夫の里立ち寄りを2回目の奥州旅路と想定しているように思うのだ。

 「小平泉を呈し賑わいをみせていた」頃を確かめる。
 大鳥城址案内板では、「親族の西行法師が陸奥を旅し、この地に安らぎを求めた頃は、小平泉を呈し賑わいをみせていたといわれている」とある。
 図説「福島市史」では、「小平泉を呈し賑わいをみせていた」という部分についてやや詳しく「庄司一族は、飯坂を中心に医王寺・天王寺・飯坂寺・西原廃寺など壮麗な寺社を有し、小平泉の観を呈していたという」と解説する。
 その「小平泉を呈し賑わいをみせていた」頃というのが、文治2年(1186)西行69歳の時に近いように思うが、どうだろうか。
a0087378_8574977.jpg これは、図説「福島市史」に紹介される佐藤系図だ。
 先に「大河ドラマ「平清盛」視聴⑩~西行に視点をあてて地域の散策とつなぐ⑥」で整理しているが、再掲する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15079921/ 
 1が、平泉藤原氏の初代~3代の部分で、2が湯の庄佐藤氏の代の部分、3が忠信継信のかかわるその子の代、そして、4が西行法師の部分だ。
 「平泉藤原氏と南奥武士団の成立(入間田宜夫)」の情報と照らし合わせて、時代の重なりを確認する。

 「信夫佐藤氏が歴史上に姿をあらわしたのは、平泉藤原氏2代基衡の時代、西暦にすれば1140年代のあたりであった」とする。それが物語に登場する「大庄司李春」の時代という。
 この事と「藤原氏系譜」の突合せで、この時代が「藤原氏系譜」の「師信(佐藤軍監)―師治(押領使)」のあたりとかかわるという。(「師信」は、系図では「師治」の一つ上の世代の〇にあたる方)
 確実な事は「元治」が3代「秀衡」とかかわるということで、そこから「師治」の時代を推定すれば、平泉藤原氏2代「基衡」の時代と重なるという推定が成り立つという事のようだ。
 「福島県史」では、これに佐藤氏独特の固有のネーミングや大庄司李春の「子息舎弟」まで斬首されている中で生き残れる方ということ条件を加えて、この「師治」氏を「李春」の従兄弟などの血筋にあたる方と想定をしているようだ。
 その世代を一つ遡った「師信」が、この系図では〇印になっているように、この方そのものの情報は乏しいようだ。ただ、状況的に奥州における佐藤氏の始まりと位置付けられているということらしい。この「師信」からの系譜が「代々伝わる後見なる上に、乳母子なり」と物語にあるように、平泉藤原家と緊密な信頼関係が築かれていたということだ。
 ということで、信夫の里で佐藤氏が飯坂を中心に定着するのが、平泉藤原氏は2代基衡の頃、おおよそ西行が最初の旅の頃だ。ここが、いわば開発期とすれば、小平泉の観を呈す時期と西行2度目の奥州への旅が重なるように思うがどうだろうか。
by shingen1948 | 2016-10-09 09:06 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)