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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑩

 義経が逗留し、正月の接待を受けた館は、?
 「新平家物語(吉川英治)」では、義経は、佐藤継信、忠信の住居である大鳥城で逗留し、正月の接待を受ける。その館は、佐場野の医王寺の隣する一城郭だとする。
 それは「奥の細道」の場面設定のままだ。
 散策と結びつける情報を探ると、平安期の佐藤氏の居城は字舘付近ではないかという情報が見つかる。
 「大鳥城についての文献的考察(東北学院大学教授小林清治)」という資料だ。

 まずは「大鳥城誌」碑が建つ大鳥城が佐藤庄司の居城とする説は、歴史的な事実として差し支えないだろうとする。その上で、平安期の信夫佐藤庄司の居館は、この大鳥城の山上の地ではなく、字舘のあたりだとするのだ。
 字舘の辺りというのは、現大鳥中学校からその東側の堀切跡から西の付近までの広がりだ。
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 ならば、散策の中で「新平家物語(吉川英治)」が描写する信夫佐藤庄司の居館は、ここをイメージしたい。
 この事については、「高舘周辺散歩②~大鳥城についての情報を意識して」でも整理している。ただ、その時には「(大鳥城の)東側の上位砂礫段丘上には、舘、赤舘、中赤舘の地名が残るが、これは根子屋郭とされる。」としたこととの関連だろうと想像して整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13610911/
 しかし、今は根子屋郭の情報と関連付けず、平安期の信夫佐藤庄司の居館が大鳥中学校の校地およびその東、堀切の跡から西のあたりにあったというふうに読み取っている。
 その上で、その後の大鳥城が山上の地に築城された頃には、居住地としての根子屋郭があったということなのだろう。

 芭蕉一行の大鳥城を訪ねたイメージは、?
 山上に大鳥城が築城され、根子屋郭とされたその位置も現大鳥中学校を想定しているという重なりだ。その読み取りの方が自然かもしれないと思えてきたということだ。時代的に、芭蕉一行の大鳥城を訪ねたイメージがこのことと重なる。
 芭蕉は、大鳥城を訪ねたとするが、ひょっとすると横目で見ながら温泉に向かったのではないのかなとも思う。天候も体調もすぐれなかったはずだからだ。
 少なくとも、大鳥城址といわれる山に向かったかどうは怪しいのではないのかなと思うのだが、どうだろう。
 ただ、山上の大鳥城を眺めながら、根子屋郭である大鳥中学校の校地およびその東、堀切の跡から西のあたりを経由して温泉に向かうということなら、納得しやすいかなと、これも勝手な想像に遊ぶ。
 なお、堀切跡の東側の大手門碑が建つ辺りについては、「高舘周辺散歩③~大鳥城についての情報を意識して②」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13620447/
 芭蕉を追って飯坂まで来た子規は、間違いなく、飯坂温泉で夏の暑さに体調を崩してここすらも尋ねることができなかったということだ。
 大鳥城は、文人の来訪を結構拒否しているなというイメージがある。
by shingen1948 | 2016-10-05 08:51 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)