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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑨~「大鳥城誌」碑にみる奥州の庶民文化とのかかわり

 自分は奥州の庶民文化を知らないことが多い。
 散歩したことを整理していく中でいつも感じるのは、自分は知らない昔の奥州の庶民が常識として持っていたという文化を知らないことが多いということだ。
 若い頃を振り返ると、田舎に暮らす私達世代者は、高度成長期の東京の文化に目を奪われていたように思う。その結果として、自らの生活基盤である地に足着く文化のよさに気づくことがなかったのではないのかなと思う。
 それで奥州の庶民文化が自分達世代で途絶えているものが多いということなのではないのかなと思う。ただ、これは今思えばということであって、その当時は気づいていないことだというのがいいわけだ。

「大鳥城誌」の冒頭に、その奥州の庶民が持ち合わせていた文化にかかわることが記される。
a0087378_6312062.jpg 源平時代に、奥州平泉の藤原三代の文化陸奥に花開いたが、佐藤氏は世々その藤原一族としてこの地方を治めた事は有名で、古くから謡曲、演劇、平家琵琶などにも語り継がれているとする。
 「大鳥城誌」では、佐藤継信、忠信兄弟は、その佐藤氏の湯ノ庄司佐藤元治の子であるというのは、誰もが持ち合わせた常識であることを前提に書き出されているように思う。
 その常識は、自分も散歩の中で確認はしている。ただ、自分は例に挙げられた謡曲や演劇や平家琵琶などでの語りを聞いていない。単なる知識として持ち合わせているに過ぎないということだ。

 「街道をゆく(33)」でも、この奥州の庶民文化にふれる。
 奥州人は、あふれるほどに義経好きなのである。
 むかし琵琶法師が奥州にくだって弾き語りをするとき、義経のくだりになると、特に力を入れた。
 その義経に、奥州からつき従ってきた郎党に、佐藤庄司の息子の継信(嗣信)・忠信の兄弟がいた。琵琶法師は、この二人の物語になると、とくに悲愴の調子をあげた。
 その理由として、以下の三つの話を紹介し、「室町以降の奥州人にとって『平家物語』や『義経記』は、継信・忠信物語だった」としている。
 〇 継信が、屋島の合戦で義経をかばうべく矢面に立ってい抜かれて、身代わりになって死んだ話。
 〇 その後、義経は暗転し、16人の郎党と共に雪深い吉野山に落ちるが、ここも包囲されて脱出せざるを得なくなるのだが、この時に忠信は義経の身代わりになって引き際を防ごうとする話。
 〇 室町時代に成立した「義経記」によると、忠信が奥州から連れてきた若党は54人だったが、吉野山の段階では5.6人しかいなくなった。それでも峰一つを守って奮戦し、義経の落去を見届け、京で発覚し自害した話。

 この事は「大鳥城誌」にも記されている。
by shingen1948 | 2016-10-04 08:23 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)