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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑧~「大鳥城誌」碑

 大鳥城址に吉川英治氏撰文「大鳥城誌」碑が建つ
 「新平家物語」の作者吉川英治氏は、地元の求めに応じて「大鳥城誌」の撰文を寄せているようだ。その撰文が、大鳥城址に「大鳥城誌」碑として建っているのだ。
a0087378_5323268.jpg 求めに応じた理由に(佐藤)兄弟の事跡を書いたことを挙げる
 「大鳥城誌」の後半で、氏が求めに応じて郷土の郷土愛に呈したことについて、二つの理由を挙げている。そのうちの一つが「下って、私も迂著の新平家物語では、兄弟の事跡をそれに書きましたので、いわば無縁の徒でもありません」ということだ。
 今回は「新平家物語(吉川英治)」が描く「信夫の里」について整理してきたところだが、その描写の中で、義経が二人の兄弟と出会う場面を提示している。この事を指しているのだろうと思う。
 求めに応じたもう一つの理由に飯坂温泉とのかかわりを挙げる
 「芭蕉翁の真似びには及びませんが」と謙遜しながらも、「近くの飯坂温泉へは、若年しばしば稿を携えてゆかりなどある儘」とする。
 先に、飯坂温泉とかかわる文人を整理したことはあったが、そこに氏を意識したことはなかったし、資料もみた事がないと思う。今のところ、確認整理の手立ては持っていない。

 「大鳥城誌」全文を再掲する
 先に吉川英治撰『大鳥城誌』碑~大河ドラマと地域を結ぶ糸の整理でこの全文を記したことがあるが、整理したことと見比べながら確認したいので、ここに再掲する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/15361621/
 大鳥城誌
 この地は源平時代の歴史に、また古くから謡曲、演劇、平家琵琶などにも語り継がれて、有名な湯ノ庄司佐藤元治の子、佐藤継信、忠信兄弟の生まれたところです。ふるさとの城です。その頃奥州平泉の藤原三代の文化もまたみちのくの花でした。佐藤氏は世々平泉の藤原一族として善くこの地方を治め、湯ノ庄司元治が、ここ丸山の頂きに祈願の白鳥を埋めたのを由来として、大鳥城と呼ぶようになったのです。
 治承4年、源頼朝の旗揚げを知ると、九郎義経は奥州の遠くからただちに平家追討の陣へ馳せつけました。途中、佐藤継信・忠信の兄弟もこの地で義経と主従の魡に結ばれたのです。そして屋島の浜合において戦い、兄の継信は主の矢盾になって討死をとげ、弟の忠信もやがてまた義経が不遇に落ちて吉野の奥に隠れ入った後、主に代わってむらがる敵中に消え去りました。
 次いで文治5年8月、義経の奥州落ちを追って鎌倉の大軍が差し向けられるや、二児を失ってもまだこの地に拠って古武士の気骨を持していた兄弟の父湯ノ庄司元治は、一族をひきいて石那坂に頼朝の大軍をはばみ、目覚ましい戦死をとげました。このことは吾妻鏡にも記録されています。
 旅すがら昔の人の心ばえやらもののふのあわれを感じては、よく夏草の跡へ句など手向けて歩いた俳聖芭蕉も、またこの地へきた折り、湯ノ庄司佐藤父子の跡を訪ねて弔ろうたと奥の細道に誌しております。下って、私も迂著の新平家物語では、兄弟の事跡をそれに書きましたので、いわば無縁の徒でもありません。
 それに近くの飯坂温泉へは、若年しばしば稿を携えてゆかりなどある儘、芭蕉翁の真似びには及びませんが、ここに拙文を草して郷土の郷土愛に呈したわけです。
 今日に立って昨日を見れば、すべて歴史は生々流転の音楽です。もしこの石の語るものが途上の遊子の胸を吹く旅情の一弦にてもなれば幸せです。ここの山河も諸子と共に奏でを合わせてやみます。
 吉川英治先生撰

by shingen1948 | 2016-10-03 05:48 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)