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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑦

 「新平家物語(吉川英治)」では、どのような意図で「あけび綱の『籠渡し(かごわたし)』」を創作しているのだろうか。
 「十綱の渡し」と十綱橋の名の由来である藤綱十条を曳いたイメージを組み合わせているのだろうと、想像する。

 物語としては平安の頃である。橋の由来と照らし合わせれば、藤綱十条を曳いた「十綱橋」なのだろうと思う。
 しかし、風景のイメージを借りていた「奥の細道」の時代には、両岸に綱をはり、舟をたぐる「とつなの渡し」だったのだろうと想像する。
「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑦_a0087378_431130.jpg これは、飯坂温泉駅の待合室に掲示される絵の十綱の渡しあたりの部分だ。こんな感じだったのかなと想像する。
 ただ、「奥の細道」では、「短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。」と出立して、「猶、夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の駅に出る」というだけで、「十綱の渡し」そのものにはふれていない。
 「曽良日記」も、3日に、「雨降ル。巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内)ヘ二リ。折々小雨降ル」と記すだけだ。
 しかし、飯坂から桑折に向かうには、この十綱を経由するしかない。橋の由来と照らし合わせれば、それは「十綱の渡し」ということになるだろうということだ。

 「奥の細道」のイメージを大切にしつつ、物語の時代の藤綱十条を曳いた「十綱橋」イメージも重ねて、「あけび綱の『籠渡し(かごわたし)』」は創作されたのではないかなという想像だ。
 「渡し」という語感も大切にしたかったのかもしれない。
by shingen1948 | 2016-10-01 09:01 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)