「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑦
2016年 10月 01日
「十綱の渡し」と十綱橋の名の由来である藤綱十条を曳いたイメージを組み合わせているのだろうと、想像する。
物語としては平安の頃である。橋の由来と照らし合わせれば、藤綱十条を曳いた「十綱橋」なのだろうと思う。
しかし、風景のイメージを借りていた「奥の細道」の時代には、両岸に綱をはり、舟をたぐる「とつなの渡し」だったのだろうと想像する。
これは、飯坂温泉駅の待合室に掲示される絵の十綱の渡しあたりの部分だ。こんな感じだったのかなと想像する。
ただ、「奥の細道」では、「短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。」と出立して、「猶、夜の余波心すゝまず、馬かりて桑折の駅に出る」というだけで、「十綱の渡し」そのものにはふれていない。
「曽良日記」も、3日に、「雨降ル。巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折(ダテ郡之内)ヘ二リ。折々小雨降ル」と記すだけだ。
しかし、飯坂から桑折に向かうには、この十綱を経由するしかない。橋の由来と照らし合わせれば、それは「十綱の渡し」ということになるだろうということだ。
「奥の細道」のイメージを大切にしつつ、物語の時代の藤綱十条を曳いた「十綱橋」イメージも重ねて、「あけび綱の『籠渡し(かごわたし)』」は創作されたのではないかなという想像だ。
「渡し」という語感も大切にしたかったのかもしれない。