人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑥

 物語では、義経は、(正月)5日の朝、ここを立つ。
 継信、忠信の兄弟が、飯坂の「十綱の渡し」まで、送ってくる。その風景を次のように描写する。
 おそろしく深い摺上川の断崖をあけび綱の「籠渡し(かごわたし)」で対岸へ渡ってゆく。― 九郎は籠の中から、兄弟の姿を振り向いていた。わけて、忠信という口かずの少ない弟の、しょんぼりと立ち残っている姿が、なぜともなく、いつまでも、眸の底に残った。
 橋のたもとに建つ案内板では、その十綱橋(渡し)の由来について次のように解説される。(写真は2010年1月の十綱橋)
 十綱橋由来
 みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶すも人に いひわたるかな 千載集
a0087378_1185138.jpg 平安の頃、この地に藤づるで編んだ吊橋がかけられていた。
 文治五年(1185)大鳥城主佐藤元治は、義経追悼の鎌倉勢を迎え撃つため、この橋を自らの手で切り落とし、石那坂の合戦に赴いた。
 その後は両岸に綱をはり舟をたぐる「とつなの渡し」にたよったが、摺上川はたびたび氾濫する川で、舟の往還にも難渋した。
 明治6年(1873)盲人伊達一、天屋熊坂惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが一年ほどして倒壊、同八年に宮中吹上御苑の吊橋を模して十本の鉄線で支えられた吊橋が架けられ「十綱橋」と名づけられた。
大正4年(1915)橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の十綱橋が完成された。
昭和40年(1965)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。
 飯坂の はりかね橋に 雫する あづまの山の 水色のかぜ    与謝野晶子    
 昭和57年 福島飯坂ライオンズクラブ
 物語は、平安の頃であり、大鳥城主佐藤元治が文治五年(1185)義経追悼の鎌倉勢を迎え撃つため、この橋を自らの手で切り落とし、石那坂の合戦に赴いた以前の話だ。
 従って、その橋は「藤づるで編んだ吊橋がかけられていた」ということになる。この橋について「飯坂湯野温泉史」では、次のようにやや詳しく記す。
 往古は西岸に巨木を建て、之に藤綱十条を曳き、綱上に板を架して橋と為す故に名づく、と、国風題詠する所の、陸奥の十綱の橋是なり
 「国風題詠する所の、陸奥の十綱の橋是なり」に係るのが、案内板の最初に掲げられた「みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶すも人に いひわたるかな (千載集) 」のことを指すようだ。

 「新平家物語(吉川英治)」が描写する「十綱の渡し」は、「あけび綱の『籠渡し(かごわたし)』」ということで、渡しとも綱橋ともつかぬ装置を、吉川氏が創作したもののようだ。
by shingen1948 | 2016-09-30 11:10 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)