地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」⑤

 「継信・忠信」の場面で、信夫荘郎党渡利猪太は、渡利の里で一夜を過ごし、馬を換え信夫山のふもとを駆けて大鳥城へ向かう。その大鳥城を「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」と描写する。
 「奇縁と奇なる日」では、義経と陵助重頼主従と案内役吉次とその同勢一行は、信夫山まで迎えに来た佐藤継信・忠信の兄弟に案内され、その「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」である大鳥城で逗留し、正月の接待を受ける。

 この「佐場野の医王寺の隣する一城郭、佐藤継信、忠信の住居」=「大鳥城」というのは「奥の細道」が設定した風景だ。
 「奥の細道」本文では、芭蕉一行は、文知摺石を見た後、飯塚の里に向かい、佐藤庄司の旧館(大島城)を訪ねる。それから医王寺を訪れたように表現する。
 その医王寺と大鳥城の位置関係が次のように表現される。
 「佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野と聞て、尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す」

 巨視的に見れば確かにその位置関係ではあるが、その描写から浮かぶ距離感と実際の距離が極端に違う。
a0087378_8322925.jpg これは、福島市教育委員会・飯坂町史跡保存会・福島市飯坂学習センターが設置した「飯坂地区史跡・文化財案内板」から関係部分を抜かせていただいたものだ。
 ここからも分かるように、医王寺の丘と丸山の間は離れている。しかも、その間に小川という川が流れているのだ。この川名から想像する川幅よりも広い普通の河川で、摺上川にそそぐ。

 芭蕉一行が、ここを訪ねた順序も逆だろうと考えられている。
 一般的には、瀬上宿から星の宮に出て、そこから摺上川の河岸段丘上を、五郎兵兵衛館跡を経由して、まずは医王寺に来たのではないかとされている。
 「奥の細道」本文では、芭蕉一行は一家の石碑を残す古寺である医王寺に入り茶を所望したことになるが、「曽良日記」との照らし合わせや当時の寺の状況から、ここにもフィクションが入っていると考えられている。
 一行は、そこから飯坂古道とされる道筋に沿って河岸段丘を降りて、小川を渡って対岸の河岸段丘を登り、大鳥城に来たのだろうとされる。
 或は、その脇を通って飯坂温泉に入ったのかもしれないとも、……。

 つまりは、ここに描かれるのはフィクションの世界のようなのだが、「新平家物語(吉川英治)」では、その「大鳥城(丸山)のかたはらの寺」=「佐藤一族の石が残る古寺」=「医王寺」という設定をそのまま採用していることが分かる。
 物語では「大鳥城(丸山)のかたはらの寺」というこの設定を利用して、城で見も知らぬ尼と対面して、その素性を知り、夕燈の頃には佐藤兄弟が託される会話が展開される。
by shingen1948 | 2016-09-29 08:36 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)