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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「新平家物語(吉川英治)」が描写する「信夫の里」③

 午(ひる)まえに伏拝(福島市)の河原をこえた義経一行は、「信夫の里のもじ摺」にかかわる風景を目にするという描写がある。こういう場合は、読者に一定の教養を保有していることを要求している。
 平安朝の上方の貴族・歌人・文人は、奥州(みちのく)にあこがれにも似た思いを持っていたということは分かっているという前提なので、特に解説されることはない。
 しかし、自分はそれを教養として持ち合わせていないので、いちいち確認するしかないのだ。

 そのあこがれにかかわって、「司馬遼太郎の街道をゆく(33)」では「信夫の里」と「もじ摺」について次のように紹介されている。
 信夫(しのぶ)」といえば、いまでこそ福島県の県庁所在地福島市(かつての信夫郡・信夫荘)にすぎないが、この時代(平安朝)のひとびとがきけば、千々(ちじ)に乱れる恋の心に、イメージを重ねる。単なる地名ではない。
 古代、奥州信夫の地は、乱れ模樣の絹糸を産した。
 その模樣がもじれて(もつれて)乱れたようであるところから「信夫捩摺(もじずり)」(忍摺)と都でよばれた。その染め方は、みだれ模樣のある巨石の上に白絹を置き、草で摺(す)って、模樣をうつし出したといわれる。
 この後、陸奥(みちのく)好きの第1号ととして、河原左大臣源融(みなもとのとおる)(860-920)と、奥州塩竈を模した庭園(枳殻邸=きこくてい)を作って、みちのくの山河こそ風雅の源泉であることを知らしめたことが紹介される。
 その方が詠んだ「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」について、次のように解説する。
 陸奥趣味の源融は当然ながら「信夫捩摺」というものを知っていた。かれはこの商品名を入れて歌をつくることで、信夫や捩摺の名を詩的レベルに高めたといっていい。
 後世、この歌は古典(本歌)となり、信夫や捩摺は、キリスト教徒における聖書の地名のように、歌よみにとって必ず心得ているべき固有名詞になった。
 そして、「みちのくしのぶ」ときけば、ここまでの連想が展開しなければ教養人でないという伝統が千年近く続き、これが少なくとも江戸期までは続いたと言い切られてしまう。

 自分は、とりあえずは読者としては失格なのだろうとは思う。
 しかし、ないものはないと開き直ったその上で、要求されている教養の知識部分を確認して、深読みに役立てることはできるのではないかとも思っている。
by shingen1948 | 2016-09-27 11:10 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)