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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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曽良氏は入江野村中村氏をメモってる⑮

 堀田氏は山形左遷の更なる左遷で福島福島へ転封され、家計窮迫で堀田家を辞して去る方もいたという事情を確認した。
 まずは、「実収の少ない福島に移される」ということについて確認しておく。
 譜代大名にとって実収の少ない転封先への左遷はかなり厳しいものらしい。というのは、譜代大名としては、格式を重んじるという意識が強い。家臣数も石高に応じて抱えるということになるようだ。
 例えば、参勤交代時の家臣数、それに伴う費用もすべて石高に応じて整えることになるという。
 ということは、常に体裁を整えるのには、本来より過剰な支出を余儀なくされるということになるようなのだ。これを貧乏藩と揶揄するという情報をみる。
 堀田氏にとっての福島藩は、まさにその貧乏藩でしかなかったようなのだ。
 その貧乏藩を担っていた堀田福島初代藩主正仲氏が、移封から8年後の元禄7年に32歳で世を去る。その貧乏藩の後を次男正虎氏が継ぐのだが、この時に2万石分の家臣をリストラせねばならない事情が派生しているようなのだ。
 それまで正虎氏は下野大宮2万石を分地されていたのだが、この貧乏藩である福島藩を継ぐときに、この2万石が没収されたのだ。
 この「正虎氏下野大宮2万石分地」については、正俊の所領古河藩13万石を嫡子正仲氏が継承する時に、そのうちの2万石を弟正虎氏に、弟正高氏に1万石を分与して正仲は10万石を相続したということだったということのようだ。

 江戸時代の基準で1万石の家臣数は120名強との情報があるので、その対象者はおおよそ240名かなと思う。碌の高い者を切れば、人数的には縮小できるという事情も想像してしまう。
 昨日整理は、家臣側から見た事情で堀田家を辞するという視点だが、堀田家側にもリストラする積極的な事情があったということだ。福島での帰農者には、堀田家を辞して去る方もいただろうが、堀田氏にリストラされた方もいたということだ。
 福島の神尾氏がどのような事情だったのかは分からない。
by shingen1948 | 2016-09-14 18:05 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)