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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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曽良氏は入江野村中村氏をメモってる⑭

 福島の堀田氏が散歩資料で登場するのは、一時期福島の藩主であったという経緯と名所旧跡とのかかわりという程度だ。
 名所旧跡とのかかわりを手持ち資料から拾ってみる。
 「清明学区の歴史」では、信夫文知摺や稚児塚に碑を建てた事、信夫山の羽黒神社に鳥居を建て、藥王寺を祈願所としたことが挙げられている。
 「すぎのめ16号」にのる地域の年表には、元禄6年(1692)に満願寺へ紙本墨栁五位鶯図(狩野常信筆)が寄進された事、更に、翌年の元禄7年(1693)には陶製西行像炉が寄進された事が挙げられる。そして、元禄9年(1696)の稚児塚に「児塚の碑」が建立されたことが、堀田氏とのかかわりで紹介されている。

 堀田氏が福島にやってくるのは、関東から生産性の低い奥羽の地である山形に左遷され、そこから更に生産性の悪い福島へ転封されるという事情だ。堀田氏にとっては、最も屈辱に満ちた地ではなかったかと想像するが、その事は山形の散歩資料で確認できる。
 神尾氏が帰農した事情と重ねて分かりやすかったのが「やまがた~藩主の墓標/(16)山形と縁深い堀田家」のページ。
 http://www.yamacomi.com/5041.html
 山形藩主だった堀田正仲が福島への移封を命じられたのは貞享3年(1686年)7月。福島の実収は少なく、「悪地のみをさずけられ、家計窮迫し」という当時の記録がある。
 「悪地」への移封に正仲は泰然自若としていたという説がある一方、重税を課して領民を苦しめたという話も伝わっている。「家計窮迫」は事実だったようで、浪人する家臣も少なくなかった。後に6代将軍・家宣の補佐役となる儒学者・新井白石が堀田家を辞したのもこの時代である。心労もあったのだろう、移封から8年後、正仲は32歳で世を去る。
 その後継は、双子の弟正虎で、元禄13年(1700年)1月には再び山形への移封。その山形でも、「将軍綱吉の「生類憐みの令」に絡む寺社造営などで相変わらず家計は窮迫した」とある。福島時代も、同じ事情であった事が想像される。

 山形の堀田氏は、その後正虎から正亮まで3代の山形在城は46年間に及ぶが、ずっと屈辱に満ちていたのではなさそうだ。宝永6年(1709年)に綱吉が死去し、堀田氏にも春風が吹き始めたということだ。
 堀田氏にとって、屈辱の最悪の時期が福島藩時代ということになるのかな。
by shingen1948 | 2016-09-13 09:03 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)