地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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曽良氏は入江野村中村氏をメモってる⑬

 堀田氏重臣神尾図書氏が、何故城下ではなく郷野目村とかかわっているのかということだが、堀田氏時代の福島城下とのかかわりが想像される。
 「清明学区の歴史」では、貞享3年(1686)に堀田氏が入部した時の様子を次のように解説する。
 本田氏時代と同じように福島に移った直後は、家臣を住まわせる家もなく農家に仮住まいさせたといわれている。また、関東から生産性の低い奥羽の地に移され、しかも山形、福島とたびたびの転封によって、藩の収入が半減し、財政は極度に苦しかった。家臣及び領民に対しては、たびたび質素倹約令を出し、家臣の俸禄を石高に応じて減じるという歩引法によって差し引いたりした。
 本田氏時代と同じようにとあるその本田氏時代については、「家臣を住まわせる家屋敷もなく町や近在の民家に分かれて宿をとったといわれている」とある。
 堀田氏重臣神尾図書氏が方木田村や郷野目村とかかわっているのは、このような状況とのかかわりなのだろうと想像する。

 散歩資料で福島時代の堀田氏時代については「福島城の変遷」でこの地をおさめていたという程度の紹介が多く、詳しく紹介されることは少ない。福島市のホームページでも、堀田氏時代について、「相次ぐ国替えで財政が厳しく、領内で厳しい取り立てを行いました。この頃から本格的に福島城(特に二ノ丸御殿)普請((建設)が始まったようです」とあるだけだ。
 この中の「財政は極度に苦しかった」と「本格的な城整備」は相反する解説に思うが、その事にもふれない。「清明学区の歴史」では、このことについて次のような推測をしている。
 堀田氏は譜代大名で、しかも将軍綱吉の初政を補佐した家柄であることのプライドがあった。それで、幕府の命令を厳守し、寺や神社を興し名所旧跡を整えることで、幕府との関係改善を図ったとのではないかとの推測だ。
 ここに、左遷的な移動という背景もかかわるだろうか。

 ついでに「清明学区の歴史」の郷野目村尾形家の情報を眺めていたら、尾形姓を名乗り、神尾家の定紋を記すようになるのは、方木田尾形家からを婿養子に入られるという縁の結び方だったことと、神尾五左衛門氏没年が天和年間(1680年代)との解説を見た。
 気になるのは没年で、堀田氏が福島藩主となる貞享3年(1686)、芭蕉の神尾家来訪貞享4年(1687)、神尾図書氏没年元禄8年(1691)より早いということだ。
 分からないことも多いな。
by shingen1948 | 2016-09-11 09:11 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)