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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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曽良氏は入江野村中村氏をメモってる⑪

 「福島市史」では、郷野目の尾形家家宝「相撲軍配扇」の箱書きで、神尾又右衛門へ家督致すが、神尾五左衛門に家督を譲って帰農したことを示す根拠としたとのこと。神尾又右衛門=神尾五左衛門だろうか。
 前回は、堀田時代に神尾五左衛門に家督を譲って帰農したのは、神尾図書氏の子神尾主馬氏と想像したところだ。従って、「神尾主馬」氏から家督を譲られたのが神尾五左衛門氏ということになり、この方が尾形家初代としているようにも読み取った。

 最近老いを感じる散歩人としては、この場合「神尾主馬」氏が眠る所はどちらかが気になる。多分、神尾家の跡を継いだという神尾五左衛門氏の手配だろうと思う。ならば、尾形家の墓地に眠るということか。
 「すぎのめ」の中に「尾形家の墓所は郷野目の旧墓地として、昔は常光寺が方木田のこの辺りにあったといわれる畑の一角」との情報を見たことがある。方木田散歩中、定紋のある門柱の建つ尾形家墓所を旧方木田墓所の道路を挟んだ畑に見たことがある。ここがかかわるのかどうかは確認していない。

 ただ、「堀田相模守の家中神尾五左衛門へ家督渡す」の堀田相模守が神尾図書氏で家督を渡されたのが「神尾主馬」氏であり、この方の時に尾形家と縁を結んだという風に読み取れなくもない。ならば、尾形家初代は「神尾主馬」氏=「神尾五左衛門」=神尾又右衛門と読み取れなくもない。

 もう一つ気になるのが、郷野目尾形家は禄高500石の家柄の部分。これは、堀田氏から「神尾主馬」氏に与えられた禄高と見るべきだろうか。その堀田氏の福島時代を確認する。
 堀田氏(10万石)は、貞享2年(1685年)に山形から実質5万石といわれる福島に入部する。そして、再び山形に戻るのが元禄13年(1700年)1月だ。
 ここに、今まで整理したことを時間軸を意識して重ねてみる。
 芭蕉一行が神尾家へ来訪するのが元禄2年、神尾図書氏の夫人が没するのが元禄5年、そして、父である2300石神尾図書氏が没するのが元禄8年だ。堀田氏は、まだ福島藩主だ。
 家督を譲って帰農した方が曖昧だが、少なくとも元禄8年からこの禄高で「神尾主馬」氏が生計を維持していたということなのかもしれない。あるいは、帰農する際に与えられた碌なのかもしれない。堀田氏の他の経済的な情報との絡みでみると、この事と帰農の選択がかかわっているように思えなくもない。
 いずれにしても、尾形家との縁を結ぶ選択は「神尾主馬」氏が行っているはずだ。一般庶民から見れば裕福な生活のままではあるが、「神尾主馬」氏自身にとっては、家老の生活から碌高500石の生活へという落差を経験し、帰農と嗣を絶ち尾形家と縁結ぶ決断をするという波乱万丈な人生だったと感じているのかもしれないなとも思う。
by shingen1948 | 2016-09-09 18:35 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)