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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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曽良氏は入江野村中村氏をメモってる⑩

 前回は、福島の「神尾図書」氏が、堀田氏の2300石の重臣であったことや、その子「神尾主馬」氏が嗣を絶ったということについての確認をした。この事と福島での尾形家の言い伝えの記録がつながるということのようだ。
 言い間違いを入れ替えて再掲すると次のようなつながりとのことだ。
 郷野目の尾形家は、方木田の辻乃内の尾形家から郷野目の神尾家に婿養子に入った。その時の約束で、以来、姓は尾形を名乗ること、ただし定紋は神尾の定紋を用いることを条件とした。
 これに「福島市史」が、郷野目尾形家が禄高500石の家柄で、堀田時代に神尾五左衛門に家督を譲って帰農したことを示す根拠とした郷野目の尾形家家宝「相撲軍配扇」の箱書きの出だしにあったという「五百石の百姓なり。堀田相模守の家中神尾又右衛門へ家督致す。本家尾形庄右衛門、同庄吉は兄弟なり」という情報を重ねる。
 この文脈で行くと、「神尾主馬」から家督を譲られたのが神尾五左衛門氏ということになる。
 「福島市史」では、芭蕉一行が訪ねた郷野目村神尾氏は、この五左衛門に符号するとしているとする。
 それを受けて、「ふくしまの歴史(近世)」では、芭蕉一行が郷野目村神尾氏を訪ねた事について次のように解説している。
 芭蕉はその日(5月1日)のうちに郷野目村の神尾氏宅を尋ねて1泊の宿を願おうとしましたが、残念ながら五左衛門は江戸に上っていたため、神尾氏の夫人と母堂(五左衛門の母親)に挨拶をして福島町の旅籠に一泊しました。このことは曽良の日記に書かれています。

 しかし、神尾氏側からの視点で眺めてくると、芭蕉一行が訪ねた郷野目村神尾氏は「神尾主馬」氏でも不自然ではなさそうに思えてくる。
 「ふくしまの歴史(近世)」でも、「芭蕉は神尾家の夫人や母親とも顔みしりではないかと推察されます」とある。そして、この日も郷野目村神尾氏は江戸に上っている。
 更には、神尾図書氏没年は元禄8年で、その夫人没年が元禄5年のようなので、元禄2年の芭蕉一行神尾家来訪の折には、神尾図書氏も神尾主馬氏も御健在が想像されないだろうか。
 堀田氏の2300石の重臣神尾図書氏とその子が、江戸に出かけて福島を留守にすることがあるのも自然だし、その奥方が江戸の風流人と知り合いであってもそれほどの不自然さはなさそうに思うのだが、……。

 単なる福島の散歩人の感覚では、曽良氏が入江野村中村氏と共にメモっていた福島郷野目村神尾庄衛門氏は、神尾主馬氏ということも可能性のある想像範囲かなとも思うということ。
by shingen1948 | 2016-09-08 09:31 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)