信夫山散歩情報の確かめ~信夫山の魅力と聖性の維持23
2016年 06月 07日
例えば、散歩情報では信夫山は優秀な金山で、鎌倉後期から金が掘られていたとされるのだが、「福島の鉱山」の「福島鉱山」では、その歴史は、明治初期の半田鉱山主、五代友厚氏の探鉱を始まりとし、その後、明治30年代に飯坂町の武田某氏の探鉱があるが、いずれもうまくいかなかったが、昭和8年に石川氏、その後昭和11年から昭和18年にかけて、大日鉱業によって採掘されたとされる。「福島の鉱山」では、歴史的な採掘にもふれることが多いのだが、散歩情報にある鎌倉期の採掘については一切ふれていない。
また、その品位については「白色粘土に硫化物の黒色斑点を含む場合は金銀に富むが、他は比較的品位低く、その大部分は脈巾も0.5mを超えない」とされる。
その閉山についての情報も微妙に違う。
散歩情報では「終戦間近まで大日鉱業が採掘していたがついに掘りつくしてしまい、閉山となってしまった」とある。
しかし、「福島の鉱山」の「福島鉱山」では、「昭和16年売鉱含金1708gに達したが昭和18年の整備に会う」のが閉山の理由とされる。そして、昭和20年地下工場の予定地として鉱区の西部を掘進中、肉眼鉱に会したとさえ伝えられるがその後発展を見ていない」とされる。
少なくとも、金龍坑で肉眼鉱に会しているようで、掘りつくしてはいないようなのだ。
散歩人の勝手な想像だが、昭和18年の整備による閉山は、掘りつくしたというよりは、昭和20年に地下工場として掘進されることになる予定地であったこととのかかわりではないかと勝手に思っているところもある。