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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現24

 「信夫山めぐり【梅宮茂著】」の「信夫山は山伏村」の項で、信夫山は13世紀末頃には山伏村であったとする。興味深いのは、その結論ではない。その結論に至る年代特定の指標となる遺跡が提示されていることだ。信夫山散策するものにとっては、その資料提示がありがたい。

 最初の提示は、西峰羽山寺から古代末から鎌倉時代にかけての遺物が出土していること。こちらは山伏村と直接的にはかかわらないが、信夫山全体の歴史的指標ではある。
 山伏村と直接的にかかわりそうな遺物は、次に提示される羽黒大権現前にあったという大鐘に弘安3年(1280)の銘の紹介。
 更に、字甘粕碑の文永10年(1273)、弘安8年(1285)の板碑を挙げ、他に類例のない「仍而如件(よってくだんのごとし)」という字句が刻まれていることにふれる。
 ここではふれられていないが、先に整理した文政8年の二十三夜塔は寂光寺墓地にあった鎌倉時代の板碑の断片を転用したものとの言い伝えがあり、その下部に「弘安」の二文字が逆さに読めるということだった。これらの板碑は、あちこちにあるのだが、元々は同じ場所にあったと言われているらしい。

 この辺りまでは、散策の中で確かめられそうな事だが、記録文書にもふれる。こちらは、散策では確かめられない座学の分野だ。
 まずは、応永21年(1414)の会津塔寺八幡長帳に、「信夫羽黒別当治部卿僧都御房」とあることを挙げる。これは、修験寺青葉山寂光寺御房を指しているという。
 その後、修験寺青葉山寂光寺御房慶印は、信夫修験を引き連れて山伏一統と共に仙台青葉山に移るのだが、その一部がほどなく信夫山に戻ったという。他に諸国から登拝した山伏も山上に庵を構えて山伏村が形成されていったのだろうと想像しているようだ。
 その村を「上杉文書邑鑑」では「信夫山村」と記されるとのことだが、これら文書確認には難しい手続きが必要なようなので、孫引きのままになりそうだ。
by shingen1948 | 2016-05-01 09:54 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)