地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現⑳

 自分歴の中で、「わらじ祭り」にかかわって気になっていた風景がある。
 それは、昭和42年(1967)~昭和44年(1969)の間だと思うのだが、神輿とわらじがトラックに積まれて街々を回ってきていたのを見たという記憶だ。曖昧な記憶の風景なのだが、そのトラックに積まれた草鞋に賽銭箱が載せられていて、人々は、神輿はもちろん、草鞋にも手を合わせて祈っていたように思うのだ。
 神輿に手を合わせる姿は納得なのだが、草鞋にも手を合わせて祈るということが理解できないでいた。というのは、草鞋は供え物なのだと思っていたからだ。
 
 もう一つ気になっていたのが、これが新しい夏祭りとして「わらじ祭り」が創出された後の風景なのか、それ以前の風景なのかということだった。
 今回確認できたのは、この観光行事化のための「わらじ祭り」創出は昭和45年(1970)とのことだ。ということは、この風景は「わらじ祭り」創出直前の風景だったという可能性が高いということだ。
 「信夫山めぐり」がいう福島市の夏祭りとは違う「大わらじ奉納」の最後の姿だったのだろうか。

 これまで祭礼の観光行事化が、信夫山の神聖さを失う結果を導いた側面があるように思っていたところがあるのだが、ここにも誤解が含まれていたようだ。
 その一つは、「信夫山めぐり」の行場破壊の読み取りだ。祭礼の観光行事化とかかわるように読み取っていたところがあった。
 ここでは、行場岩などがダイナマイト破壊される理由づけとして、戦後の観光行政のためということ共に「わらじ奉納の巨大化」に伴うものということが挙げられていた。
 実際の行場破壊がいつ行われたのかは今回は確認できていないのだが、少なくとも「わらじ奉納の巨大化」は祭礼の観光行事化以前の話とのことだ。
 わらじの巨大化が、行場を奉納の困難性をもたらすものとの捉えになるのならば、祭礼の観光行事化が直接的に行場破壊の要因ということではなさそうだということだ。
 もう一つは、本来は氏子中としてわらじの受け手であった御山地区の住民が、わらじの作り手となったのは、祭礼の観光行事化に伴う変質の一つとのとらえだ。
 「福島市における祭礼空間の変容【松井圭介】」では、信夫山における聖性の衰退とともに、この変質を挙げている。しかし、神輿とわらじがトラックに積まれて街々を回っていた風景を見たのは、「わらじ祭り」創出以前だ。
 この時には、既にわらじの作り手は御山地区の住民になっていたと推定されるのだ。これは、御山地区の住民が、受け手として存在できる状態ではなくなっていたとみるべきなのだろうと思うのだ。

 「わらじ祭り」創出は、その目的はそれぞれの組織なりなのだとは思うが、暁参りの祭礼の継続という視点から見れば、御山地区の住民の祭りへの積極的な関わり合いと観光協会との協力の方策が功を奏しているという側面もありそうに思う。
 確かに「わらじ祭り」の創出が、信夫山における聖性の衰退に影響を及ぼしている側面はあるのだろう。それを今後の課題の一つとするのはよいとしても、このことによって、「わらじ祭りの創出」を否定すべきではないとも思うのだ。
by shingen1948 | 2016-04-26 16:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)