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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現⑲

 「信夫三山暁まいり」の原点には、旧正月14日の羽黒山修正会結願の行事という性格があったということだが、その行事は延宝3年(1675)には行われなくなったという。ということは、江戸時代にはその意義は消滅していたということになる。
 江戸期の郷民の意識としては、「信夫三山暁まいり」は小正月の前日に信夫山羽黒権現の御開帳に合わせて参拝し、翌朝の小正月暁の朝日を拝んで早朝に帰宅するということに変質していたのだと思う。
 明治になるとその御開帳もなくなってしまうのだが、それでも、昭和初期までは古くから山岳信仰とかかわる神社という動機づけが通用していて、近郷近在から多くの参拝者が確保されていたということなのだろうと思われる。

 今では「信夫三山暁まいり」とのかかわりで説明される「大わらじ奉納」だが、「信夫山めぐり【梅宮茂著】」によれば、羽黒山修正会結願の行事と結びついた本来的な「信夫三山暁まいり」とはかかわりのないものだという。
 郷民が禍を逃れようと祈ったのは仁王門の仁王様で、その奉賽として大きなぞうりやわらじを治めたのだというのだ。これは各地でごく普通に行われていたことだが、ここでは暁まいりの時に行われていたというのが特徴的なことのようだ。昔は、仁王門だけではなく周囲の杉並木にも奉納されたとも。
 明治になると仁王門が廃されたので、神社境内にあった足尾神社に奉納されるようになったとのことだ。

 その巨大化とかかわるのは、養蚕の盛行の祈願と共に、日清日露戦争の戦勝気分の高揚がかかわっているような感じのようだ。
 この多数化、巨大化の現象から、足尾神社のみならず大杉や古松に取り付けられるようになり、日本一の大わらじ奉納と称されるようになったのだという。先の大戦で一時中断したが、戦後になって鉄塔に奉納するようになっていたということだ。
 「信夫山めぐり」では、これは福島市の夏祭りとは別であるとわざわざ断わりをいれている。
by shingen1948 | 2016-04-24 16:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)