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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現⑰

 時々、出羽山の羽黒大権現を参考にしながら信夫山羽黒大権現を確認したところがある。その比較の中で、信夫山では、羽黒修験の雰囲気を味わうことが出来ないのが残念だなと感じるところがある。
 出羽山羽黒修験道はその壊滅は免れているようなのだ。廃仏毀釈等によって本来の姿は失われるようだが、宿坊の伝統を継ぐ宿場も存続しているようだ。そこから発信される情報によれば、羽黒山峰入りなどは、現在でも神道とは別に存続しているようなのだ。
 ここを訪れる参拝者は単なる観光客ではなく、山岳信仰の修験者としての体験を望んで参加している方も多いようにうかがえる。

 「信夫山めぐり【梅宮茂著】」によれば、信夫山独特の行事「暁参り」の古式は旧正月14日の羽黒山修正会(しゅうせいえ)の結願の行事なのだと「六供加藤家文書」を資料として解説される。
 それによれば、修正会とは、著名な大寺が年始に国家長久を祈る法会神事で、正月8日から10日間行われるものだったとのことだ。
 信夫山では、これに先がけ羽黒社の神輿が正月5日に黒沼社に下り神事御神楽を奏し、7日には黒沼より羽黒へ還御する行事が加わり、翌日の8日から五穀成就の神事「ミシホ(御修法)」に入って14日に結願するという日程だったという。
 この14日に結願する終会で御開帳となるので、郷民も参拝し、次の日の15日の小正月の暁の朝日を拝んで、早朝に帰宅したのだとか。これが「暁参り」なのだとか。
 この行事は、別当寂光寺と社人宮人が潔斎して奉仕するものだったが、延宝3年(1675)には行われなくなったという。

 ここで資料とされた「六供加藤家文書」について「福島県史料情報 第40号」で解説される。
 http://www.history-archives.fks.ed.jp/con7/shiryo-40.html
 ここで気になるのは、「延宝年間に起きた羽黒山別当職を巡る寺院間争論が起因していると思われる」という解説部分だ。具体的な寺院名や争論内容については今のところ確認できていない。
 ただ、廃仏毀釈の危機以前から、信夫山修験とかかわる「暁参り」は消滅していたらしいということは分かる。
by shingen1948 | 2016-04-21 17:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)