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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現⑮

 「信夫山めぐり【梅宮茂著】」では、宗教性のない祭礼など観光行事化が信夫山における聖性の衰退の原因と見ているらしいことが伺える。
 他に、婉曲な表現ながら、明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈の危機への安易な対応策もその要因になっているとの主張も読み取れる。
 この時に、別当寂光寺は真言宗に改められて、真浄院がその代行をしていたわけだが、その真浄院とも完全分離することになる。その時に、羽黒大権現の本地仏である聖観音像や仁王門の仁王像が真浄院に移される。その仁王像は、明治14年の甚兵衛火事により焼失する。
 「信夫の里の札所巡り【梅宮茂著】」のコラムには、他に仏具や銅鐘も真浄院の所有になったと記される。また、羽黒水の岩場にあった蚕神、馬神としての信仰が厚かった「御山権現御坂馬頭観音堂」も無くなるのだが、「信夫山めぐり」では、「本尊であるその馬頭観音は確かに真浄院にある」と付け加えがある。
 明治政府の方針から見た所有権移動とみれば正当性があるのだが、その明治政府の方針を批判的にみた場合、これが信夫山における聖性の衰退と結びつき、その所有権移動についても懐疑的な見え方になるのだろうと想像する。(後半の所有権移動情報については、まだ曖昧なところがある)

 ただ、仁王門の仁王像は真浄院に移されているようだが、仁王門の建物は、地元御山小学校の建築材になることからは、納得ずくだったことも感じる。また、[モンモ【2015年 早春号 No.54】]には、少なくとも昭和初期には、近郷近在からの参拝客で賑わっていたことを伺わせる情報が載っている。ここを読むと、少なくともこの時点までは、近郷近在の人々は、まだ信夫山における聖性を受け入れられていたという状況だったのではないかなと感じるのだが、どうだろうか。
 その情報は、以下の昭和12年の新聞記事をかかげて、「昭和10年から13年頃は、米沢や近郷からも参拝客が大勢来たので臨時列車が出たほどでした」との羽黒神社の責任総代小野仁二郎氏のコメントと、「10日の午後7時頃が参拝のピークで夜通し続きました」との当時の暁祭りの状況を紹介したもの。
 「徹夜の賑ひ~羽黒山暁祭り~【福島民友】」
 福島の名物羽黒山の暁祭りは9日夜から10日朝にかけて行われたが〇〇の春に第一線将士の健脚を祈る善男善女が近郷近在から押寄せ福島市内は終夜ごった返しの賑はひを呈し映画館や食堂も今宵ばかりは特免と徹夜でこれらの参詣者を吸収して大入り満員の〇〇で全く近来にない人出であった。
【「羽黒山暁祭りの雑踏」の写真】

by shingen1948 | 2016-04-19 10:39 | Comments(0)