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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現⑭

 前回、「信夫山めぐり【梅宮茂著】」の寂光寺跡の解説中に、その鐘堂が勝明院の池の下にあったことが読み取れることについてもふれたが、もう一つの鐘堂があったことを紹介する箇所がある。
a0087378_14465218.jpg 「信達風土雑記」に、「奉鋳羽黒大権現鐘一口 百六十貫目 弘安三庚辰年三月三十日」との銘がある古鐘があったことを記すところがあるとうだ。その鐘堂は、古地図との照合で、羽黒神社境内にあったことが分かるのだとか。
 初めは境内の南東隅にあったようだが、それが南西隅に移ったのだそうだが、天保4年の火災にあって失ったとの推測のようだ。
 その「南西隅」の位置には、明治になって神楽殿ができたそうだ。その位置に現在建っているのが、大わらじ奉納の鉄塔という位置関係のようだ。

 勝明院の池の脇の鐘堂とこの羽黒神社境内の古鐘とは別物のような気がするがどうなのだろうか。また、半沢氏や梅宮氏が、明治になって撤去されたという鐘楼は、どちらなのかもよく分かっていない。
 ただ、少なくとも、信夫山羽黒権現が、出羽三山が信夫山羽黒権現とかかわるとされるよりも古くから信夫山羽黒権現が存在していた痕跡があるとする証の一つが、この弘安三年の古鐘であるようだ。他に、鎌倉時代の板碑、応永21年の「会津塔寺八幡長帳」の「信夫羽黒山別当治部卿僧都御房」記載から、信夫山修験の勢いがその時代から会津にも知られていたという事が挙げられている。
 出羽三山は、規模が大きく、現在でもその信仰の痕跡が残るため、その影響下に信夫山の修験を見てしまうが、少なくとも信夫山が陸奥南半の羽黒修験を統括する本拠であったという推測が成り立つということのようだ。
 言われてみれば、伊達政宗はどちらにも影響力を持っていたはずで、従えるのに権威の順位を無視するはずもないだろうとも思えるのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2016-04-18 14:47 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)