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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現⑬

 伊達政宗公と共に、寂光寺に伴って羽黒権現も仙台城下町に移った時、信夫山では、その分霊を勧請して新たに「羽黒権現」を建立されたということだ。
 その時代には羽黒権現のみが存在していたと思い込んでいたが、「信夫山めぐり【梅宮茂著】」を確認していくと、それが微妙に違っているらしいことが分かる。
 その一つに、寂光寺の本堂が倒壊して消滅するのは、明治3年の台風によるとの記述が見えることがある。少なくとも、その時点までは寂光寺の本堂の建物は残っていたという事になる。
 また、「寺跡には本坊、鐘堂跡、旧墓地が伝えられるが堂閣の配置は不明である」とあることから、廃仏毀釈の命令に、仁王門とともに取り払った鐘楼は、寂光寺の跡地にあったことも分かるとともに、その時点まで本坊近くには、鐘堂も残っていたということが分かるのだ。
 この別当寂光寺寂光寺の本院は、先に整理した仙台青葉山寂光寺だが、ここの寂光寺は真言宗に改められて、真浄院が代行していたということになるようなのだ。

 婦女子の参拝にかかわる整理をしてきたところだが、この風景とかかわってのイメージとなるらしい。
 「近世になって、信達地方の養蚕が盛んになると、聖観音を本地仏とする羽黒山大権現は蚕神として信仰が盛んになり、婦女子の参拝が多くなる」というのが、この風景の時代らしいのだ。
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 「寂光寺の跡地」は、「結界杉」の根元にあったという二十三夜塔のある位置から右手に入る細道の上の畑地だと案内される。
a0087378_4415143.jpg その坂道を上るとこんな感じの風景があって、その前方に柚子畑が広がる。ここに次の婦女子の参拝についての説明を重ねる。
 御神坂は女人禁制の威風があって登拝ができないので、柚子畑―勝明院の池で潔斎し、この寂光寺で祈祷を受け、その寺の後ろの女坂と称する細道を通り、先に整理した膝かぶ石につながる婦女子の参拝のための「女道」があったと解説される。

 現宮人w氏宅が「勝明院」の後進で、現宮人s氏宅が「本覚院」の後進との別項での解説と合わせてみれば、婦女子は「柚子畑―勝明院の池で潔斎し」て「寂光寺」に来ると読み取れるので、この右手の柚子畑を通って来たのだろうと想像する。
 なお、勝明院の池についての解説に、この池は寂光寺鐘堂の下にあるように解説される箇所がある。この説明とも重ねてみると、柚子畑―勝明院の池で潔斎した婦女子は、その鐘堂の脇を通って、こちらにやってきたという想像になる。
a0087378_4435390.jpg 先に進むと、笹薮の中に細道がある所までは確認できるのだが、これが先に整理の膝かぶ石につながる婦女子の参拝のための「女道」なのかどうかの確認まではできていない。
by shingen1948 | 2016-04-16 08:35 | Comments(0)