信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現④
2016年 04月 05日
「信夫山めぐり【梅宮茂著】」によれば、出羽の「拾塊集」では、「天長年間に信夫郡に出羽羽黒の弊を移した。社務黒沼中将」とあるが、信夫山の伝承では、こちらが古いとのことで、疑念が示されてはいる。
それで、原風景を想像する一手段という限界を意識した上で、想像の試みを続ける。
これは、明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈の難に、羽黒大権現を残すことができたという「笹野観音」ホームページの境内Map図から観音堂とその参道付近の様子がわかる部分をお借りしている。
http://sasanokannon.com/keidai.html
この「観音堂」が、「羽黒大権現」のお堂とみてよいのだろうと思う。
参道に入る処には仁王門があって、「羽黒大権現」のお堂まで石段の参道が続く。その参道脇には、「弁天堂」「地蔵堂」「不動堂」等のお堂が並んでいるようだ。
そして、「羽黒大権現」のお堂近くの左手に、漱口場が設置される。参拝者は、お参りに先立ち、この手水のための水屋で手を洗い、口を漱いで身体と心を清めるのだろうと思う。
以前には、この参道に、明治政府の神仏分離令の危機対策のために取り払われた鳥居が建っていたということなのだろう。
これをもとに、信夫山「羽黒大権現」の明治政府の神仏分離令の危機対策を想像する。
信夫山では、この同じような風景から廃仏毀釈の命令に従順に従って、仁王門や鐘楼が取り払われたとのことだが、仏教的な要素の強いお堂なども撤去し、参道の鳥居を残したのだろうと思う。そして、「羽黒大権現」の本地仏をも撤去し、神鏡を供えて羽黒神社としたということなのだろうと思う。
その撤去された「羽黒大権現」の本地仏は、「こもかぶり観音」なのだが、これを「御神体だった渟中倉太珠敷命の聖観音像」という言い方をすることがある。「羽黒大権現」の本地仏としては「聖観音像」だが、黒沼神社とのかかわりで、それが「渟中倉太珠敷命」のご神体でもあるという重なりなのだろうと思う。
当時の地元民は、神鏡の背後にこの「渟中倉太珠敷命の聖観音像」のイメージを感じ取って祈っていたのではないのかなと勝手に思う。祈るには、畏敬の念が大切なのだと思うのだ。