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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫山散歩情報の確かめ~羽黒権現③

 今回は、信夫山の羽黒権現の原風景をイメージしようと試みている途中で中断してしまっていた。 まずは、確かめようとしていたことを確認しておく。

 信夫山(青葉山)の羽黒権現の最初の原風景は、別当寺である青葉山寂光寺の境内に、羽黒権現が存在していたということなのだろう。ところが、寂光寺伊達政宗公に伴って仙台城下に移ってしまうのだが、羽黒権現も一緒に移動してしまう。
 それで、信夫山(青葉山)では、その分霊を勧請して新たな「羽黒権現」を建立されたのだという。 従って、この時代、信夫山には羽黒権現のみが存在していたということになるのだろう。これが、次の時代の羽黒権現の原風景ということになるのだろう。
 信夫山を散策してきた者にとっては、ここまでの原風景の変遷は納得できる。

 素直に受け入れがたいのが、明治政府と称する集団の国家神道政策としての神仏分離策のため羽黒権現の原風景が崩されたことだ。
 信夫山(青葉山)の羽黒権現は、仏教的な要素をすべて排除されて、羽黒神社とされる。
 この時に、信夫山の本地仏でもある「こもかぶり観音」が清明町の真淨院に移されてしい、仁王門や鐘楼などが取り壊されてしまったのだ。
 「半沢氏の信夫山フィールドワーク」では、次のようなメモを記す。
 明治初期は、国家神道政策が荒れ狂い、神仏分離が厳しく実施され、羽黒大権現は神社とされて、六供の修験者たちは還俗し、農民となって姿を消し、仁王門や鐘楼が取り壊された。 
 そして、信夫山の本地仏でもある「こもかぶり観音」が、清明町の真淨院に移された。
 六供の修験者たちも還俗して農民となって姿を消したということなので、この時に信夫山の修験の雰囲気も失ったということのようだ。

 明治政府と称する集団の意向で羽黒神社になった羽黒大権現は、麓にある黒沼神社の摂社の立場になったようだ。ただ、社殿などは、弘化2年(1845)に建てられた羽黒大権現時代のままだったようだ。これが、先に整理した2代目金子周助建立伝の社殿で、4隅の彫刻が福島市指定文化財に指定されていたとのことだ。
 この社殿が、昭和51年(1976)に)に焼失して、現在のコンクリート造の神社の形に建て替えられたということだ。そして、仁王様のために奉納された大草鞋は、「信夫三山暁参りの大わらじ奉納」という形に変えて、神社への奉納という形で引き継がれたということになる。

 信夫山に羽黒権現のみが存在していた時代の原風景をイメージするのに、前回整理の「笹野観音」のイメージをお借りしようとしている。
 「笹野観音」では、今も羽黒大権現は同じお堂にお祀りできているということだ。神仏分離令の危機を乗り越えられたのは、羽黒大権現の額と参道の鳥居の笠を下ろす対策が功を奏したのだとか。
by shingen1948 | 2016-04-03 14:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)