地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」と半田銀山⑤

 福島市の県歴史資料館では、五代友厚の関連資料を公開したとのことだが、それは地域の名士である早田氏とかかわる具体的な資料提示のようだ。
 先の半田銀山散歩の中で、この早田氏にふれている記事を確認しておく。
 まずは、「半田銀山遺跡」の整理。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7764484/ 
 この記事の中では、衰退してしまった半田銀山を再生しようとする地域の名士である早田氏にもふれている。この写真は、その早田邸の再掲。
a0087378_18132513.jpg
 
 ここでは、旧伊達郡役所に展示される早田氏についての説明を基にした紹介の確認だ。ただ、この散策の時点では、旧伊達郡役所自体が震災で公開できる状態でなかったので、以前に訪れた時の情報を元に整理したはずだ。
 早田氏は、慶應3年から明治3年まで銀山を経営していた明治初期の代表的な銀山経営者とのことだ。
 元治元年(1864)から百二十数年続いた幕府経営がうまくいかずに廃業となり、このために山に住み働いていた坑夫達は全く生計の道を失い、まさに飢餓に陥るような状態となっていたという。この様子を見過ごすことができないといって経営に乗り出したのが、この早田氏とのことだ。
 地域の名士紹介にありがちな美談のデフォルメを疑がったが、庄司氏によると、信達地方の名主層がそういった心学に基づいて行動することはごく普通のことだったとのことだ。
 当時の代官政治では、豪農名主の農村対策に待たざるを得ないという状況であったらしのだ。信達地方の名主層の蓄積した資力で貧農の施米・樅の貸付・米金の貸付などの貧農救済事業も道普請河川修復等も含めて農村対策をするということはごく普通に行われていたこととのことだ。

 その早田家の銀山経営も坑内事故などで必ずしも順調に言っていたわけではなさそうだ。そういう状況の中で、昨日整理の情報が重なるようだ。
 明治7年6月14日には、その早田氏を半田銀山再開発の現地事務代理人として任命したということだ。そして、翌明治8年6月9日付けで年報酬50円を約束したということだ。
 このあたりからが半田銀山の五代氏経営ということであり、翌々年の明治9年7月25日には、半田銀山の再開発に成功したようで、現地代理人としてその事務を早田氏に委任したということだ。

 実は、ここで張り付けた早田邸の写真は、羽州街道散策途中に趣のある景色として写真に収めたものだ。この時は早田邸を意識していなかったのだが、後で早田邸だと気がついたものだ。
 桑折町散策ガイドブックによると、この早田家の邸宅は、銀山経営や新道開削など、地域発展のために尽力したとして町の指定文化財になっているとのことだ。
by shingen1948 | 2016-02-08 18:17 | 半田銀山 | Comments(0)