地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」と半田銀山③

 NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」の登場人物五代友厚から、大阪を中心に活躍する実像の友厚氏のイメージがつかめたような気分にはなれたが、それが半田銀山とかかわるという必然性のようなものがつかめていない。それで、五代友厚氏の鉱山事業にむすびつきそうな経歴を探すと、「金銀分析所経営」というのが目につく。この仕事は、全国各地から小判や丁銀などの金銀類(偽物も含む)を買い集めて、潰して地金にする事業のようだ。
この頃は、明治政府が発行した太政官札や徳川時代の小判や一分判金、一分銀、丁銀、天保通宝、寛永通宝、ローカルな藩札や地方貨などが入り乱れていたという。明治政府は、明治4年(1871年)の新貨条例で、その世の中に流通していた様々な通貨を「円」に統一すると決め、通貨として全国的に通用する貨幣の発行するのだが、同時に世の中に入り乱れて流通している貨幣の回収を急がなければならなかったということだ。
 金銀分析所経営は、そういう意味では造幣局や大阪証券取引所の設立ともかかわるらしいとも見える。もう一方では、これに目を付けた友厚氏の独占事業であり、この金や銀の回収と並行して、これを資金源としてビジネスを広げる形で鉱山事業の経営にも乗り出したということでもあるようだ。

 鉱山事業の経営に絞って、五代氏のその経緯を確認する。
 政府は国策上主要鉱山を政府直轄にする方針をとり、明治4年(1871年)9月には工部省鉱山寮がおかれる。こうした中、友厚氏は松友社という名義で、明治3年(1870年)5月から多くの鉱山を次々と開坑していくようだ。
 明治6年(1873年)資本金数十万円を投じて大阪に弘成館を創設して鉱山経営の規模拡大を図る。豊富な資金力を背景に友厚は多くの鉱山を開発、買収して、その傘下に鉱山を収めることになる。
 中でも、半田銀山を経営することになった明治7年(1874年)には、新たに東京築地入船町に出張所を設け、こちらを東弘成館とし、大阪の方を西弘成館と呼ぶようになったという。
 これが見事な組織整備と規則整備で、多くの人たちの注目を集めて賞賛を浴びたのだとか。地元で、半田銀山は佐渡金山・生田銀山と共に日本三大鉱山と並び称された鉱山だったとは聞いてはいるのだが実感を持っていなかった。五代氏のこの力の入れ方でそれを実感する。

 ここまでの整理で、大阪の五代氏と半田銀山経営のイメージが何となく結びついたような気分になれた。そして、山散歩で感じた近代設備を駆使した大規模鉱山事業というイメージの背景のようなものも確認できたような気がしている。
 この銀山が生む莫大な利益と資産が、大阪復興に還元されていったということでもあるのだろうなとも思う。
by shingen1948 | 2016-02-06 17:42 | 半田銀山 | Comments(0)