地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」と半田銀山②

 半田銀山資料展では、日本の発展に貢献した半田銀山にNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」の登場人物五代が関わるという視点での展示らしい。
 しかし、当方としては、半田銀山は五代氏がかかわることについては知っていたこと。
 ただ、その五代氏そのものに関心が薄く、どんな方なのかの確認していなかったということだ。
 したがって、今回の整理は、むしろ「あさが来た」のドラマで描かれる人物像から実在の五代氏に迫れたらそれでいいと思うのだ。
 うまい具合に、いつも大河視聴で参考にさせていただいている「坂の上のサインボード」に、その視点からの紹介を見つけた。これを参考に整理しておきたい。

 五代氏は、大阪では大阪商工会議所の初代会頭を務め、経済の発展に貢献した人物としてよく知られている方のようだ。
 元々は、薩摩藩の上級武士で儒者の家に生まれ、幼少の頃から英才として知られているようだ。ドラマでも描かれていたように、藩から選抜されて長崎に留学したり、幕府の海軍伝習所で学んだりしているらしい。
 慶応元年(1865年)には、薩摩藩遣英使節団としてヨーロッパに渡り、大いに見聞を広めているという。

 明治になってからは、戊辰戦争での西軍としての貢献が買われて、政府の要職に就く。
 外国事務局判事の大阪府権判事兼任するのが、大阪との最初のかかわりとのこと。
 この時に、堺で起こったフランス水兵と土佐藩士との衝突事件や、イギリス公使パークス襲撃事件などの処理に手腕を発揮したことや、大阪港の開港、貿易事務も管轄したこと等々で大阪との深い関わりが生まれたという。他に、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致たりし、初代大阪税関長も務めたりするなどの活躍もあったようだ。
 また、新政府の肝いりで大阪に通商会社、為替会社を設立したりもしているようだ。この時に、はじめは協力に消極的だった大阪の有力両替商らからも信望を高めたようだが、朝ドラではこの雰囲気をドラマと重ねて描いたようだ。そのドラマでも描かれていたように、明治2年(1869年)に五代に横浜転勤の辞令が出たときには五代留任を求める声が大阪経済界から起こったという。五代は政府から横浜へ転勤を命じられると、愛着のある大阪に残るために官を辞したという。
 更に、その後も金銀分析所、鉱山、活版印刷所などの事業を興したり、関西商人等と阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)、大阪商船(現・商船三井)を起業したりと活躍の場を広げているようだ。
 そして、明治11年(1878年)には大阪株式取引所(現・大阪取引所)の創設にも関わり、大阪商法会議所初代会頭として大阪の商秩序を正常化し、今の大阪商工会議所の礎を築いたのだとか。
今の大阪市立大学につながる大阪商業講習所を作ったのも彼なそうで、「大阪の恩人」と言われているとのこと。
 ただ、生涯はそんなに長くはなく、49歳の若さで病死するが、糖尿病だったらしいとのことだ。

 「坂の上のサインボード」では、没我奉仕の精神で、私利私欲に頓着せず、不正を徹底的に忌み嫌う薩摩人気質を強調して、経済人として敏腕を振るった五代だったが、死後、遺産はほとんどなく、多額の借金だけが残っていたとの紹介で締めくくる。
by shingen1948 | 2016-02-05 10:23 | 半田銀山 | Comments(0)