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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島城址23

 大原綜合病院(本院)で大原病院新病院の建設予定地の発掘調査についてのパネル展示を見たのが、今回の福島城址整理のきっかけだ。
 先に整理した時には、信夫の里の中心地からの眺めだったが、今回は信夫の里の西在から眺め直しているという見え方の違いがあるように思っている。
 今までとの違いの一つは、鎌倉幕府の東北侵略の後の勢力分布とのかかわりが気になるということ。
 信夫の里の北に佐藤氏の勢力が温存され、信夫の里の西在の名倉に二階氏が構えていたという状況下、本来、伊達氏は伊達の里に構えるべき方だ。その方が信夫の里の杉妻城に入るのだが、その意図の一つに、信夫の里への進出の足掛かりも意図していたのではないかとの想像だ。
 もう一つ気になるのが、西在から眺めれば、二階堂氏―伊達氏と信夫の里を治める権力者が変わっても信夫の里の中心地だったのに、次の蒲生氏はそれを南東隅に移してしまうこととのかかわりだ。 今までの中心地である西在からは、このことがどんなふうに見えるのかということだ。
 それで、伊達氏の時代の杉妻城と蒲生氏の時代の福島城の痕跡が気になっていたのだ。しかし、その後の福島城の痕跡も消えてしまっている現状では、散歩の楽しみだけでは一気に追い求めるのは難しい。中途だが、今回はここまでの整理にしておく。

 ここからは、気になることの付け加え。
 消えてしまった福島城の痕跡を辿るのに識者の資料から知識をお借りしているのだが、ここで気になったのが堀の水源だ。よく阿武隈川の水を取り込むような表現を目にするのだが、散歩人としては、これは絶対に不可能だと思うのだ。
 福島城が、須川右岸のように河床的な地形ならそれも可能だと思う。しかし、「奥州福島城下の形成その2」の「中世の杉妻城付近想定立体図式」にもあるように、この福島城址は河岸段丘的な地形上にあるのだ。その水源には、少なくとも王老杉のふるさと「笹木野原」の高度が必要なのだと思うのだが、どうだろうか。
by shingen1948 | 2016-01-28 08:50 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)