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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島城址22~供養塔2基が語ること②

 紅葉山公園にある大佛城跡出土宝塔を中心に、鈴木氏が挙げる福島城から出土した多数の板碑群から寺院の存在が想像されることについて確認してきた。伊達郡霊山村に創建され衰退した遍照寺を、慶長年間に伊達氏が福島城内に再建したとの推定だ。その遍照寺と杉妻寺が同一なのかどうかは分からない。

 今回は、大佛城跡出土宝塔の左の石塔が語ることについての確認だ。
 この板碑も昨日整理の板碑群と同様に鎌倉時代のもので、杉妻寺大佛城にゆかりのあるものと想像されているようだ。
 その板碑が、大正13年の松齢橋工事中に、阿武隈川の河底から発見されているという。

 安田初雄氏の「奥州福島城下の形成その2」では、各時代の城下絵図の検討からこのことにかかわる推定をしているようなので確認をする。ここでは、現在の福島城郭の全体イメージは三角形なのだが、中世の杉妻城は方形であったとの見え方をしているようなのだ。
 提示された「中世の杉妻城付近想定立体図式」を見ると、その時代の阿武隈川(大熊川)は、弁天山を回り込むようにもっと南側を流れていて、そこに西側から須川が流れ込むという川の流れを想定している。その須川に架かるのが密語橋で、その付近が南東角とした方形の段丘状の地形と福島城郭が重なるイメージをしているようだ。
 本文からは、その方形の南東端の尖端近くに杉妻大仏を祀る大仏堂があったとの想定が読み取れる。

 その方形の福島城郭が削り取られるのは、近世末の洪水と想定しているようだ。
 「中央にあった筈の樅の大木が、近世末の洪水で流失してしまった」とし、その時代は遅くとも堀田氏の時代で、水損で本丸が手狭になってしまっていたとの推定をしているようだ。
 大正13年の松齢橋工事中に阿武隈川の河底から発見された板碑も、この方形の福島城郭の中央にあった筈の樅の大木が流失した洪水で、流失した板碑ということのようだ。
 なお、昨日整理の鈴木氏が紹介する福島城出土の多数の板碑群は、既にこの「奥州福島城下の形成その2」で紹介されていた。また、昨日整理の大仏城・杉妻城時代の館は、福島城の西側部分を想定しているのだが、ここでは、その館は福島城全体の中の部分という捉え方をしているらしいという見え方の違いが確認できる。
by shingen1948 | 2016-01-27 08:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)