地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島城址⑱~強まった豊かな水辺のイメージ③

 福島用水や内堀外堀への水が供給される御用水路が案内される旧高湯街道と用水路が交差する付近からはその水路に蓋がされている。風景としては、蓋をされた下水道等の排水路と変わりない風景 だ。
 多分、これが御用水路だろうと見当をつけて追っていくと、案内板が目に入る。
a0087378_7474195.jpg その案内によれば、ここは原田地区とのことだ。御用水路は、ここで2分されるとのことだ。一方の流れは、曾根田、五十辺方面の開田用水のための流れで、もう一方の流れが、奥州街道筋の町方用水を経由して福島城外堀内堀に加水されるための流れになるということのようだ。
 史跡 御用井堰
 初代福島藩主として就封依頼明治維新まで12代続いた板倉藩が「天戸川」および「須川」から堰上げして下野寺を引水した。御用水路はここ原田で二分され、一部は福島城(現県庁とその周辺)外堀並びに町方用水にされ、他の一部は福島町、曾根田、五十辺方面の開田用水となって流水。300余町歩の水田を潤して殖産大いに挙がったという。堰には「番所」が設けられ、厳重な制水管理が行われた。地元では今でも用水を堰堀と呼んでおり、躍進福島30万都市の形成に貢献した功績は大であると考える。現在も流れている水路は郷土の貴重な文化財で「福島用水」という。
 昭和20年4月
 野田町南町会
 ここから先も水路を追ってはみたが、今となっては、ここから先は近代的な排水路の一部の風景でしかなく、町用水のイメージとつなぐことはできなかった。

◇      ◇       ◇       ◇         ◇

 「譜代大名板倉氏の治績」の18章で、初代福島藩主として就封した重寛氏の視点で福島城が概観される。重寛氏は、先の任地信州坂本では城地がなく、城持ち大名となることが望みだったとのことで、福島城への入城に満足していたとする。
 満足の一つが、この城が、文禄2年(1593)に蒲生氏郷公の客将木村吉清氏が居城の大森城から町屋寺院を杉妻城下に移して「福島城」として以来、百十余年という中世以来の歴史風格を持つこと。福島城は、木村氏の後、米沢上杉領となり城代に本庄氏4代が歴史を刻み、その後、福島藩として15万石本田忠国氏、10万石堀田正仲、正虎氏が居城している。
 これが、もう一つの満足とかかわっている。板倉氏は3万石だ。その石高に比して城郭の規模は大きかったとする。

 福島市民ではあるが、自分が居住するのは板倉氏の領内でもない。板倉氏は、おらが殿様ではない。また、福島の散歩の中で目立って地域のための治績を感じることもなかった。それで、「譜代大名板倉氏の治績」自体には興味は持てなかった。
 しかし、今回の福島城の散歩を整理していく中で、ここに福島城が存在したことが、その後の福島の歴史にとって大きな意味を持ったのではないかと思えてきている。ならば、明治までこの福島城下を維持管理してきたことを、板倉氏の功績として評価すべきなのではないかなとは思えてきている。
by shingen1948 | 2016-01-20 08:46 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)