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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島城址⑤~蒲生氏郷公時代の近隣の町村とのかかわり

 本格的な福島城下整備のはじまりは、蒲生氏郷公時代らしい。
 散歩の中で得たその頃の近隣の町村情報を整理するのは、ごく普通の生活者である地区民の視点から、権力者がどう見えているのかということの興味だ。

 霊山町の「宮脇遺跡」発掘調査説明会で、霊山寺の御本尊であった阿弥陀如来が千葉県善雄寺で発見されたということが説明されたことがあった。この事については、「霊山町『宮脇遺跡』発掘調査説明会④~本尊の発見」で整理した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7642356/
 これが、伊達地域の蒲生氏郷公の評価的な見え方とかかわっている。

 「霊山寺縁起」によると、文禄年中(1592~96)伊達政宗が、仙台に国替えになり、岡野佐内という者に一山の寺領が召し上げられ、堂塔伽藍や寺まで打ち破られ、山の古木は伐採されて、持ち運んだという。
 この「岡野佐内という者」が、蒲生氏郷公の家臣であり、霊山寺の御本尊である阿弥陀如来の頭部が千葉県に運ばれて、胴部が付けられ千葉県善雄寺に安置されたというのは、この頃らしいのだ。
 このことと蒲生氏郷公の若松城下などの整備が結びつき、この地から多くの遺物等が持ち運ばれたのはそのためではないかと推測されているようなのだ。
 会津での蒲生氏郷公の評価が高いのはこの城下町づくりだが、伊達近辺ではこのことにかかわって評判が悪い。
 この霊山寺御本尊「阿弥陀如来像」が、千葉県香取市の善雄寺に安置されているのが発見された事については、その後の伊達市歴史文化講演会で詳しく解説された。この時に本堂に掲げたというその実物大の写真も拝むことができた。
 このことについては、「霊山寺縁起と天海僧正③:伊達市歴史文化講演会②」の整理でふれた。
 http://kazenoshin.exblog.jp/11687636/
 この講演会では、この「霊山寺縁起」の記述の信ぴょう性の考察のお話も伺えた。県立博物館の高橋氏の「霊山寺縁起と天海僧正」という講演だ。
 講演の主旨は、宮脇遺跡調査の進展に伴って、関連する文献資料などの再調査も必要ではないかというようなことだった。それで、霊山の由来を語る貴重な文献資料である「霊山寺縁起」をどう読み解くかということに焦点を当てたお話だったように思う。

 高橋氏は県立博物館員らしいが、その県立博物館は会津に在り、そこで仕事をなさっている方のようだ。普段は当然のように蒲生公の若松城下町づくりについて肯定的に考察されているのだと思う。 それが、この伊達市歴史文化講演会では、伊達の寺の混乱は蒲生氏がかかわるという否定的な見方の後の講話になっていたのも面白い。
 ある地域では、功労者として奉られる賢者が、ある地域ではマイナスのイメージを持つ。光の当て方によって違った見え方があるというのは、散歩の楽しみの一つ。

 この時代に、福島城下は蒲生氏郷公の客臣木村氏によって整備されている。これが、近隣の人々からはどう見えていたのかなということの興味とつながる。
by shingen1948 | 2016-01-06 08:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)