福島城址④~福島強訴との関連で
2016年 01月 05日
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ここでは、以下の「福島市史」の要点をおさえた次の解説を示し、「清明学区の歴史」では、具体的な対応者とかその場所といったことまで詳細に解説しているとした。
福島藩では越訴は御法度と説得したが、農民たちは立ち去る気配もなかった。藩はやむなく幕府に注進し、餓死寸前の農民たちに「御手当粥」を施し、寺・町人の有志も握り飯などを出したが、飢えた農民たちは「町の内より五郎内の辺、海道の左右にみちみち、旅人驚き申す程」だったという。「清明学区の歴史」は、具体的な対応者とかその場所を詳細に描写するとしたが、それが次のような描写だ。
(中略)
28日に至って、幕命を受けた福島・二本松両藩は一斉に農民の説得に乗り出し、農民たちは幕府に聞こえたからには必ず救いがあるものと期待して、各村々に帰村した。
代官所を引き上げ、壮絶な決意をした農民二千人は、砂煙をあげ、黒い渦を巻いて黙々として北に進み、須川を超えて町に入った。福島城裏門の前(現在北町バイパス付近か)につめかけ、遂に御法度の越訴、集団強訴を敢行した。これが、昨日整理の新屋敷―三の丸―外三の丸の福島城の外堀と土塁のラインをイメージしながら想像すると分かりやすい。
「紅葉山公園」に掲げられた案内図等では、その福島城裏門がよくわからないのだが、今回の発掘成果を整理した案内図では、新屋敷―内三の丸―外三の丸のラインの内三の丸と外三の丸の間に堀と土塁の切れ目が見えるが、そこが、「現在北町バイパス付近か」との推測的な記述と重なるような気がしている。ただ、門の存在は不明。
福島旧城郭絵図(明治4年(1871)の絵図では、門は、三の丸と新屋敷の間に描かれるが、新屋敷―内三の丸のラインが違うということでは、こちらも曖昧さが残る。
福島藩の対応にかかわっては、次のように解説する。
福島城では奉行池田弥惣右衛門ほか郡代代官等が、大手門先札ノ辻西門屋敷の馳走屋(現在一司堂印舗、中合、木村時計店付近)で農民代表と合い「強訴は法度であるから帰村するように」説得したけれども、農民達は容易に承知しなかった。福島藩は、農民の暴動化を恐れ、江戸に急使を遣わすとともに、一日一回の粥の炊き出しを行ったという。
中略
絶体絶命に追い込まれた農民たちは九日から12日にかけて処々に集合して頑強に集団を解かず福島周辺(町内、小山荒井、腰浜等)の野にさまよい続けた。
福島藩奉行や郡代代官と農民代表があったのが、「大手門先札ノ辻西門屋敷の馳走屋」とのことだが、「大手門先札ノ辻」が更地前に「ふれあい歴史館」のあった位置だ。馳走屋の位置を現在一司堂印舗、中合、木村時計店付近とするが、現在なら「ホテルサンルートプラザ福島」の位置とした方が分かりやすいかも。