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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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義民太郎右衛門霊堂④

 「福島市史」では、越訴された福島藩の対応について、次のように要点をおさえて解説する。
 福島藩では越訴は御法度と説得したが、農民たちは立ち去る気配もなかった。藩はやむなく幕府に注進し、餓死寸前の農民たちに「御手当粥」を施し、寺・町人の有志も握り飯などを出したが、飢えた農民たちは「町の内より五郎内の辺、海道の左右にみちみち、旅人驚き申す程」だったという。
(中略)
 28日に至って、幕命を受けた福島・二本松両藩は一斉に農民の説得に乗り出し、農民たちは幕府に聞こえたからには必ず救いがあるものと期待して、各村々に帰村した。
 「清明学区の歴史」では、もっと具体的な対応者とかその場所といったことまで詳細に解説する。「福島市史」が説明する28日の対応については、若干ニュアンスが違う情報になっている。この対応、「清明学区の歴史」では27日の対応として記される。
 福島・二本松両藩の対応として、農民の説得に乗り出し、農民たちは勘違いして、幕府に聞こえたからには必ず救いがあるものと期待して各村々に帰村した事実としては同じだが、その受けた幕命が違う。江戸御老中酒井讃岐守からの奉書(幕命)は、「農民退去」の命令書だったというのだ。
 農民の帰村後、二本松藩では士卒69名を動員して領堺を警備、相馬藩は二枚橋を、仙台藩は越河を固め、米沢藩は士卒300人で領堺を固めたという。
 そして、9月の裁定で、福島藩に越境し訴えたものの中で処刑された者は36名。
 そのうち死罪獄門は立子山村の小左衛門、忠次郎の2名。次に重い三宅島への遠島が5名という厳しい処断がなされたとのこと。(「福島市史」では遠島9名)
 この9月の裁定では、佐原村太郎左衛門は、弁舌さわやかで追放だけで済んだという。
by shingen1948 | 2015-12-29 08:17 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)