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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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義民太郎右衛門霊堂③

 「義民太郎右衛門霊堂の誌」では、大挙して代官所請願から福島越訴に及ぶことになった事由を冷害とする。
 「ふくしま人物誌」の情報では、この享保13年(1728)の冷害凶作時に、農民が検見と夫食拝借を願い出た時に、それを認めないだけでなく、川欠荒地にまで年貢を賦課するという過酷な返答だったことを挙げている。
 「清明学区の歴史」の情報では、そもそもこの幕領地では延宝(1673)の頃から厳しい検地で年貢が年々高くなっていたという状況のもとで、二つの要因が重なったというふうに解説する。こちらの情報に説得力を感じる。
 二つの要因のうちの一つに、享保8年から代官に就任した岡田庄大夫氏の年貢算定法が過酷であったことが挙げられている。
 豊年5か年を基礎とした定免である上に、5厘増しを課すというものだったとのことだ。それで、逃散する百姓が続出したのだが、その残された荒れた土地をすべて村方に割りつけたという。それで、残った百姓は益々困窮していたという。
 そういった状況下で、享保13年の冷害によって大凶作に見舞われたというのが二つ目の要因だというのだ。
 ここに「福島市史」の情報を重ねれば、この冷害大凶作時に、これまで通りの定免制による年貢を押し付けたとのことだ。更には、今日の食料に窮し、来年の種籾を心配する農民の生活を無視して、凶荒に備える置籾を各村に命じた上、翌14年2月には、その半分の上納を厳命したとのことだ。
 ここでいう「これまで通りの定免制」は5厘増しも含んでいるのだろうと推定する。

 「清明学区の歴史」や「福島市史」に情報はないが、「ふくしま人物誌」にあるように名主達が農民が検見と夫食拝借を願い出るということがあたかもしれない。
 ここに「清明学区の歴史」の情報を重ねれば、その名主の愁訴も享保14年2月には禁止されるという状況だったとのことだ。

 これらの状況下で、「大森代官支配下35箇村の代表者が協議」して、代官所への請願行動となり、福島越訴にまで及ぶことになったということのようだ。
by shingen1948 | 2015-12-28 08:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)