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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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義民太郎右衛門霊堂②

 「義民太郎右衛門霊堂の誌」で読み取れなかった部分を、他の情報から補完してみたい。
 まずは、代官所への請願から福島藩への越訴にかけての以下の部分を確認する。
 たまたま享保の中頃当地方に大凶作が起き餓死人が出ました。当時この地域は幕府領であったので、大森代官支配下35箇村の代表者が協議の結果を義民が大挙して再三減税を請願したが、百姓は〇〇〇〇を混ぜて食え老人子供は死んでもよいと〇〇れと許されませんでした。
 「清明学区の歴史」を中心の情報として確認する。
 「たまたま享保の中頃当地方に大凶作が起き餓死人が出ました」の部分だが、これが、享保13年(1727)で、大森代官は岡田庄大夫氏。「大森代官支配下35箇村の代表者が協議」とのことだが、佐原村民の視点としてはその通りらしいが、この岡田庄大夫氏は川俣代官所支配地も管轄であったようだ。享保14年(1728)の代官所請願は、立子山村の小左衛門氏や忠次郎氏とは極秘で示し合わせているようで、川俣代官支配下33箇村の請願とも連動しているとのことだ。

 「大森代官支配下35箇村の代表者が協議の結果を義民が大挙して再三減税を請願」したことにかかわっては、次のような解説があった。
 3月7日大森代官所で信夫35箇村の農民2千人に待ち受けていた言葉は「餓死するものあらば藁へ粉糠を入れて喰らえば当分死ぬことは無い。老人子供はなんの役にも立たぬから餓死しても苦しゅうない。」という代官手代木南浅野右衛門の威丈高な威圧であった。前に進めば手打ち、下がれば餓死、行く術を失った農民がめざしたのは隣領福島藩であった。

 ということで、よく読み取れなかった「百姓は〇〇〇〇を混ぜて食え老人子供は死んでもよいと〇〇れと許されませんでした」の部分は、「百姓は藁へ粉糠を混ぜて食え老人子供は死んでもよいといわれて許されませんでした」ということのようだ。

 案内碑では「万策尽きて福島藩に越訴したので代表者は厳罰に処せられました」とある次の手段である福島越訴については、情報によって微妙な違いがある。
 「ふくしま人物誌」の情報では、「万策尽きて福島藩に越訴した」のは翌年の享保14年(1729)3月で、福島藩と二本松藩に岡田代官の苛政と年貢減免と夫食拝借の要求を越訴したとする。その二本松藩への越訴状起草が太郎右衛門氏だったといわれているとも。自分でも、勝手に一呼吸あるように感じていたところもある。
 しかし、「清明学区の歴史」によれば、代官所請願自体が享保14年(1729)3月7日で、それでらちが明かないと見た農民2千人は、翌3月8日にはそのまま北に進んで須川を超えて町に入り、福島城裏門に詰めかけ、遂に御法度の越訴・集団強訴を敢行したしたとのことだ。
 時間的に空くのは、「万策尽きて福島藩に越訴した」ことと「代表者は厳罰に処せられました」との間のようだ。
 「清明学区の歴史」には、越訴された福島藩の対応についても詳しく解説されている。
by shingen1948 | 2015-12-27 08:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)