名馬タマツバキ号
2015年 12月 24日
「ふくしま散歩」によれば、自衛隊演習場の舌状の高地の西側に広がる「地蔵原」では、酪農とかかわりながら開けていった経緯があるらしい。散歩中に見つけたわけでもなが、今回の散歩と結び付けて整理しておいてもよさそうに感じてきた。
福島の地の人方にとっては、競馬は身近で愛着を持つ方が多いようで、地元ではこの名馬タマツバキ号はよく知られているようなのだが、自分は知らない。ここで整理するのは、ネット情報からの自分なりの読み取りの範囲だ。
名馬タマツバキ号のデビューは昭和23年で、昭和26年末に引対するまでの戦績自体は75戦35勝で、それ程目立ったものではないようだ。
競馬には「斤量」というハンデ戦があるそうで、そちらとのかかわりでの名馬ということらしい。
タマツバキ号は、5歳時からその能力を発揮して勝ち鞍をあげていき、その負担重量がどんどん増していったということだ。これが、並外れたタフネスぶりだったということのようだ。
7歳時には、とうとう83キロの極量を背負って走るハメになるのだが、この重量を背負っても阪神競馬場で4連闘したとのとこと。
その戦績が、80キロ以上の斤量を背負って21戦6勝だったそうで、これが驚異的な成績とのことだ。
この馬は、引退後種馬となって36歳まで生きたという。これも、競走馬としての長寿のレコードを作ったのだとか。
この名馬物語の裏には、サラブレッドとアラブという系統とのかかわりで敗者の影も見える。それがあるから興味を引くということもある。
かつて、日本ではサラブレッド競馬とアングロアラブの競馬との馬種による競走体系が組まれていたとのことだ。ところが、時の流れの中で、中央競馬で生き残りを果たしたのはサラブレッド系のみとのことだ。だが、この名馬タマツバキ号は、アラブ系だったとのことなのだ。
それに伴い、競馬ファンの中でも、アングロアラブの神馬たちは忘れ去られていくという運命をたどったというのだ。
今回の散策では、伊達氏によって信夫の里の支配から追いやられた二階堂氏を感じたのだが、今回の散策範囲で、支配から追いやられたこととかかわるのは、それだけではない。最近、再評価されつつある田沼氏の下村藩も、今回散策した地域の話だ。この辺りは、蒲生氏によって中心地から周辺地に追いやられた西在の地域でもある。
名馬タマツバキ号の中央から追いやられる敗者の影と、これらが重なって見えてしまったのだ。