地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地蔵原までの主要な道筋の確認後の帰り道で②

a0087378_6201210.jpg 塀の中のこの石柱をみつけた。意識していたわけではないが、道標らしき石塔が気になっていたのだろうと思う。
 手前が石柱下部で、向こう側にあるのが折れた石柱の上部であるらしいことが分かる。これはその両方の南面が分かるように撮ったものだ。
 奥の石柱上部には「福島縣信夫郡 佐」が刻まれているのが読める。そして、手前が折れた石柱の下部には「倉村役場」が刻まれているのが読める。
 それで、この石柱は「福島縣信夫郡 佐倉村役場」の標柱らしいことが分かる。

 この石柱を見た時、最初に読み取れたのが、二つに折れた上部の西面「吾妻富士」と下部の西面「四里六町」、下部の東面「二里八町」だ。東面上部を読み忘れている。
 それで、東面上部の情報をいつもお世話になっている街道webから情報をいただく。寄り道web→元標web→<福島県の道路元標>→信夫郡1→佐倉村で、この情報にたどりつく。
 読み落としは、「福島里程元標」であることが分かる。手持ち情報とつなげば、「福島里程元標 二里八町」ということで、道路元標でもあるらしいことが分かる。

 もう一つ分かったのは、ここが佐倉村役場の跡地らしいということだ。a0087378_6315752.jpg この辺りの村についての知識が曖昧で、ここは上名倉村でなかったかなととの思いが、……。それで、「ウィキペディア」で確かめた。
 佐倉村は、明治22年(1889) 4月1日に南佐原村・上名倉村・下村(現佐倉下)の区域をもって発足し、昭和31年(1956)9月30日に 福島市に編入して廃止されているようだ。その情報の役場位置は、佐倉村としているが、この地なら現上名倉字西田のはず。
 この辺りは上名倉村だったはずとの思いは、それはそれで正しかったように思う。
 
 なお、上名倉村があるのだから下名倉村があるはずということと、二階堂氏とのかかわりで気になっていたのが「下名倉村」の行方。これを機に確認してみた。
 下名倉村は、明治9年(1876)に、吉田村と合併して吉倉村になったようである。そして、その吉倉村も、明治22年(1889)に、方木田村・八木田村・仁井田村と合併して、吉井田村になっているということのようだった。

    ◇     ◇      ◇      ◇      ◇      ◇
 家人の話では、NHKヒストリアで紹介されるのは福島市の六角病院とのことらしい。その福島市での開業は「六角謙三」氏の孫にあたる六角襄氏とかかわるのではないかと推定されるようだ。
 六角襄氏の妻アイさんが星多聞氏という方の娘さんのようで、その多聞氏は東北帝国大学医科大学卒業後、附属病院内科に勤務していたが、岩手での開業後、1935 年から福島市万世町に移って開業しているとのこと。そのかかわりかなとの勝手な想像。

 六角氏は、江戸時代から医師という職業が脈々と続いている家系だということが特徴的な情報なのだが、確かな情報は、地元よりも他所から入るというのも特徴的だ。
 今回は、六角氏の地元福島というかかわりの部分を、主として聖マリアンナ医学大学雑誌「雑報:横手山手病院について(内田和秀)」から読み取らせていただいている。
by shingen1948 | 2015-12-13 08:19 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)