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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地蔵原までの主要な道筋の確認後の帰り道で

 土湯会津道~地蔵原までの主要な道筋の変遷②で、二つの道筋と明治39年建設荒井横断道路とで作る三角形の場所に旧荒井役場があったらしいことを整理した。
 この時に、明治39年建設荒井横断道路と赤仁井田―目増線に続く道筋の交差点に次のような道標が建っていたらしいが、現在はないことを確認した。

 御大典記念
 昭和3年11月荒井村北斗会
 南土湯温泉を経て会津に至る
 東大森村を経て福島市に至る
 西土湯温泉を至る
 北佐倉村吉井田村を経て福島市に至るa0087378_1610424.jpg 帰り道、この道標を見た時に、一瞬、その道標が移動されたものかなと思って期待した。しかし、確認したら別物であることが分かった。
 この道標で読み取れたのは「東 福島   至る」・「西 佐原」・「南」ぐらいしかないのだが、「佐倉消防組」も読めたのだ。旧荒井役場前の道標は「荒井村北斗会」であり、村界を挟んだ佐倉村の道標ということのようだ。

 この二つの村は、今でこそ福島市の同一の行政地域として扱われているが、元々は、佐倉用水を村界として「上名倉村」と「荒井村」とに分かれていたようなのだ。この辺りの国道115号線バイパスの道筋は、おおよそこの佐倉用水沿いを走っている。
 国道115号線バイパスの道筋が、おおよそ村界のイメージだ。
 そういう見え方で周りの風景を眺めれば、村界の意識が薄らいでいるらしいことが分かる。支所や公民館・中学校などの公共の施設はおおよそ「上名倉村」側にあるのは、セクト意識より大きな視野でコミュニティーづくりがなされている結果なのだろうと想像する。

  ◇       ◇      ◇       ◇       ◇ 
 郷土を散策するものとしては、ふるさととの結びつきに関心を持つところだが、その意味で興味深いのは、六角謙三氏は会津藩医として会津戦争にもかかわっているらしいこと。
 六角謙三氏の父である尚謙氏は会津藩医だったという。現福島県耶麻郡猪苗代町に住むようになったのは、会津戦争後の事なのだとも。
 謙三氏自身も、会津藩医である古川春英に学んでいて、会津戦争では、父尚謙氏と養父であり叔父でもある玄国氏と共に、国境に出陣して軍医方を務めたという。戦後、高田藩に幽閉されるのだが、そこを脱走したという。
 上京して蘭疇医院で学んだのは明治3年(1870)のことで、西軍が明治政府と称した後のことらしい。翌年には、蘭疇医院嘱託となっているようで、開拓使医員を拝命してNHKヒストリアにつながるのは、明治5年(1872)のことのようだ。
by shingen1948 | 2015-12-12 08:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)