地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大竹地蔵堂に立ち寄る②~土湯会津道~地蔵原までの主要な道筋の変遷④

a0087378_216796.jpg 立ち寄った大竹地蔵堂について「歴史地図」でプロットされるのは、「神武天皇碑」と「保存種アカマツ」だが、すぐにわかるのがこの「保存種アカマツ」の方だ。

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 「神武天皇碑」は多分こちらだと思う。
さて、お堂の案内解説に沿ってこの「大竹地蔵堂」を整理したところだが、「信達二郡村誌」では、「延命地蔵尊」として紹介されている。
 延命地蔵尊
 中部おおたけに在り 堂東西3間 南北5間 境内東西4件7分南北7件9分外に属地石塚9歩共に民有地 本尊は行基菩薩の刻む所と云伝ふ 昔鈴木治右衛門なる者 二本松畠山家の臣なりしか畠山家滅亡の後本村に来り農と為る元和ニ丙辰年三月廿一日の夜荒川に沂(さかのぼ)り地蔵菩薩を得ると夢む 翌日荒川に往き夢る所を尋れは果して一の木像を得たり即ち今の本尊なり堂を造り安置して之を祭る
 案内板解説で「約400年は昔二本松よりこの地に住みつき農事に励みたる鈴木治右衛門なる若侍」とされる方は、「信達二郡村誌」では「昔鈴木治右衛門なる者 二本松畠山家の臣なりしか畠山家滅亡の後本村に来り農と為る元和ニ丙辰年三月廿一日の夜荒川に沂(さかのぼ)り地蔵菩薩を得ると夢む」と解説される。
 両方の情報を重ねると、鈴木治右衛門なる若侍は、二本松畠山家家臣だったが、畠山家滅亡の後にやってきて帰農したとの読み取りになる。
 そう整理すると、その対戦相手である伊達氏についてふれないことが分かる。これが意図的なのかどうかは分からない。ただ、少なくとも、その頃のこの地での支配者は明らかにその伊達氏であり、鈴木某氏は服従の意思表示が必要だったのだろうとの想像はつくとは思う。

 鈴木治右衛門なる若侍で、もう一つ気になるのが、和算家鈴木梅次郎氏とのかかわり。
 和算家鈴木梅次郎氏の碑はこの少し先にあるのだが、「歴史地図」のメモによると「深見と名乗ったが、ふつうは甚右衛門と名乗った」方で、文政5年(1822)~明治28年(1895)74歳で、建立は明治15年で、門人50名が刻まれるとする。
 「昔鈴木治右衛門なる者」がやってくるのは元和2年(1616)なので、ご本人でないのは明らかだが、関係があるのかどうかということだ。名字が同じということもあるが、学問的な素養を身に着けることができる環境がどう醸成されてきたのかという興味とのかかわりだ。

 会津道の地蔵原付近の道筋で見た和算家の碑の阿部太七氏は、文政12年(1829)~明治37年(1904)の人で、甚右衛門氏より7歳若い。
 その経歴に、数術を鈴木某に学んだあと、岳谷佐久間先生門でも数年学んでその奥を極めるのだが、その鈴木某氏はどなたかということとのかかわりも想像してしまうのだが、本当のところは、今のところよくわからない。

 「本尊は行基菩薩の刻む所と云伝ふ」も気になるところだが、こちらもよくは分からない。

 ◇      ◇       ◇       ◇        ◇
 今回の「六角謙三」氏の検索の裏には、NHKヒストリアの影響があるらしいことが分かった。
 家人の話では、ここで案内されたのは福島市の六角病院のようだが、その福島開業は「六角謙三」氏の孫にあたる六角襄氏とかかわるようだ。
 六角襄の妻アイさんが星多聞という方の娘さんであり、その多聞氏は東北帝国大学医科大学卒業後、附属病院内科に勤務していたが、岩手での開業後、1935 年から福島市万世町に移って開業しているようで、その引き継かなと想像する。
by shingen1948 | 2015-12-11 08:14 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)